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【書籍】写真の哲学のために

ヴィレム・フルッサーによる、1999年当時において写真の将来を示唆した本書。再読。

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画像にはなんらかの「意味」があり、その意味は「表面」に潜在している。鑑賞者はその表面上を走査することで、意図を読み解こうと試みる。このことから、画像は「内包的(多義的)」なシンボルの複合体であるとみなしている。

画像を繰り返し走査することによって、画像固有の空間・時間が生じ、「あらゆるものが繰り返し反復され、すべてのものが意味で溢れかえる文脈に参与する世界、すなわち魔術の世界にほかならない」という。

ここから、「画像は起こった出来事を事態へと置き換え、それを舞台的な場面へと翻訳する」と指摘するように、「コト」から「モノ」へと変換することが重要となる。

本書におけるキーワードとして「テクノ画像」が挙げられる。テクノ画像とは「装置によって制作された画像」を意味する。「テクノ画像はテクストのメタコードである」ため、テクノ画像は「その外の世界を指し示しているのではなく、テクストを指し示している」としている。

写真の誕生は、それまでのテクスト崇拝、すなわちテクスト=文字によって綴られた歴史から新たな歴史「ポスト・ヒストリー」が始まった。それが、写真が作り出した新たな歴史の幕開けである。

写真家たちは写真装置であるカメラを通して、新たな画像=写真を探求している。このことから、「写真装置は道具ではなく玩具」と同義であり、写真家とは労働者=「ホモ・ファーベル」ではなく、遊ぶ人=「ホモ・ルーデンス」であると指摘する。

装置のプログラムは、写真家の能力を凌駕する必要がある。これは、外部操作によって入力された信号(シャッターを押す)が、カメラというブラックボックスを介在し、画像(写真)という成果物が獲得できることを写真家は理解していたとしても、想像以上の効果=写真が得られることを意味する。

では、もし写真家が装置のプログラムを理解していたとしたらどうなるのであろうか。もしくはその装置(カメラ)を介在することなく、写真が生成されるとしたら、果たしてそれは写真と呼べるものなのであろうか。ここに写真家と装置、装置と写真との関係性、そしてソシュールのいうシニファイン(意味しているもの)とシニフィエ(意味されているもの)が複雑に絡まり合っていく。

これは、フルッサーが指摘するように、「装置は機械ではない」ということからみてとることができる。すなわち、装置とは「カメラ」単体を指しているのではなく、一方を他方へと変換する「プログラム」なのであり、そのプログラムを組む人間もまた写真家と同様に「機能従事者」であることを意味する。

こうして「装置とは数字的な記号を組み合わせるゲームという意味での思考をシミュレートするブラックボックス」と述べているように、ハードウェアではなく、ソフトウェアな点において、装置は存在している。

また、ここでいうプログラムとは単なる演算子的な意味だけではなく、「写真産業、産業領域、社会ー経済的装置」といった「仕組み」を総括して用いられている。

写真家が撮影することができるものは、「写真可能なものだけであり、つまりはプログラムに存在するすべてのものだけ」とし、写真可能なものとは「事態」だけであると言及している。ここに、現実的に存在しているものとは「写真」というモノであり、写真が実在論と観念論との区別を乗り越えるものとして存在するとフルッサーはみている。

また、写真家の実践は常にプログラムに拘束されており、たとえそのプログラムに逆らっていると写真家が思っていたとしても、その行為そのものはすでにプログラム化されたものの内部によってのみ可能であると指摘している。すなわち、撮影、編集、取捨選択といった行為は、すでに規定化されたプログラム内によってのみ自由度があることを意味する。

写真を撮影することは、今や字を書くことと同じように特別なことではなくなった。ただし、字を書くためには、その字の画数や書き順など、書くことを、さらにはそれを読むための訓練が必要となる。

戦後日本における識字率はほぼ100%といっていいほど、誰でも読み書きが可能である。しかし、アフリカ大陸などの発展途上国では識字率が50%に満たない国があるほど、誰でも読み書きが出来るという訳ではない。

アマチュア写真家、とりわけ写真クラブなどでは撮影をするために機材の性能や描写力など、プログラム化されたハードの部分に陶酔する傾向がある。よりよい機能を用いることこそが、よりよい写真が撮影できると思い込んでいるからだ。

これは、主にカメラ雑誌などの作例にカメラの機材、レンズ、絞り値、シャッタースピードなど、撮影に関する情報が明記されている。この機材を用いて、この設定で撮れば、このような写真が撮れますよ、と謳っている。

カメラメーカーの販売戦略的には、新たな製品の売上台数を伸ばすために、こうした撮影に関する情報を開示している。新製品の使用レビューといったものも、まさにこの効果を狙っている。新たな機能が追加されたことで、これまでは難しかったものも自動で簡単に撮影できますよ、といった具合に。

カメラ、すなわち装置がよりオートメーションされたことによって、写真家にとっては撮影そのものに関する煩わしさがひとつ減ったに過ぎない。しかし、アマチュアにとっては新たな機能=自身の写真が上達したと錯覚してしまうことに装置の落とし穴がある。

ここに、写真が持つ超えられない壁のひとつが存在している。写真クラブなどでは先生と呼ばれる指導者のもと、その先生の作風に合うことや、同レベルの生徒たちがお互いの写真を褒め合うことで、ひとつの閉鎖的なグループを形成する。そこにあるのは向上心ではなく、同調勢力なのだ。

そして、彼らが訓練すべきは、いかにそのカメラを使用するかといった操作性の部分に焦点が当てられる。自動化が進み、誰でも簡単に綺麗な写真が撮影できるようになった装置の操作はもはや必要最低条件ですらない。

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ポスト産業社会主義以降、写真の役割は大きく変容した。かつては記事が写真を説明するものであったが、今では写真が記事を説明するにいたっている。

写真は私たちを宇宙という形態のなかに囲い込む魔術的な円環を形作るのです。この円環を打ち破ることが重要なことなのです。

さらに、フルッサーは写真の定義を以下のように拡張している。

写真は、偶然に依存するゲームの進行のなかで、プログラムされた装置によって自動的に、かつ必然的なしかたで作り出され、流通する、魔術的な事態の画像であり、その記号は蓋然性の度合いをもつがゆえに、受け手に情報を与える

画像、装置、プログラム、情報が相互作用的に働くのとともに、これらは永続回帰によって成り立っていることを指摘している。

また、我々は日常的にポスト産業的な思考をしており、そのひとつの例として「宇宙論」を挙げている。

これは、我々は宇宙を一つの「装置」ー入力(ビックバン)に始まり、偶然かつ必然的な方法によって情報を実現し汲み尽くすようにプログラムされたものーとしてみているという。

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もはやカメラを用いて撮影することだけが写真なのではなく、フルッサーのいう「装置」としてカメラを用いることが現代では一般的となりつつある。

思うに本書は「写真とは何か」という概念的な部分に焦点を当て、その写真はどのように作られるのかといった手法的な観点、およびそうした写真を制作する人物像にスポットを当てている。

これは、写真家は「機能従事者」であると述べているように、写真を撮影するという行為はもはや装置の操作でしかなく、いうなれば誰しもが「カメラオペレーター」であるといって差し支えない。

では、カメラオペレーターとアーティストの違いは何かと考えたとき、操作的な部分ではなく、「写真で何ができるのか」という目的=アイデア・コンセプトの点がより重視されているのが現代アート分野における写真の位置付けなのではなかろうか。

プロセスや手法はあくまで制作手段にしかすぎず、語られるべきはアイデア・コンセプトの部分である。

また、写真は眼前の出来事(コト)が写るが、実世界と写真世界とではそれぞれが独立した世界であるため、そのコトをいかにモノ(物質・マテリアル)に変換することかが重要な鍵となる。


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