【書籍】教養としての写真全史
写真評論家である鳥原学氏による本書。鳥原氏は私が写真専門学校時代(おおよそ10年前)、写真史関連の講義を担当していた先生であった。今もなお同校でも教鞭をとられている。
写真全史、ということで、カメラの技術的な発展、写真家たちの写真の歩み、写真の種類(報道、ファッション、芸術など)といった内容について網羅的にまとめられた、398ページにおよぶ大書となっている。
「教養として」と枕詞がタイトルになっているように、写真史に興味がある方は是非一度手に取り、その軌跡を振り返ってみるには良書といえるであろう。
ただ、私の写真に関する関心は、誰がどのような「写真」を「撮影」し、その写真が「どのように読み解ける」のかといった、誰しもが思い描く「写真」については興味を失っている。もはや、現在においてこうした「写真」は「写真家」たちがしがみついているのであって、現代アート分野における「写真」はすでにかつての「写真」からはアップデートされている。
イントロで同氏は2020年代の写真について以下のように指摘している。
現実はもっと進んでいる。写真的な行為、すなわち撮影である必要はもはやない。イギリスの作家・キュレーターのシャーロット・コットンは『現代写真論』を2010年に出版している(日本語版)。
その後、一定の期間が経過したのち、本書は新たに章が追加され常にアップデートされているのが特徴である。「現代」とはもっとラディカルで、最新の表現をみなければすでに過去のものとなる。最初に発売された2010年当時には最新の「現代写真」であった内容も、12年が経過した2022年現在ではすでに最前線ではなくなってしまっているのである。
最新版(リヴィジョン4)では邦訳はまだながらも、新章(9章)では、「ポスト・インターネット時代」における「写真」が紹介されている。
そこで紹介されている「写真」とは、もはや撮影という行為は必要とされてはいない。
「写真」とは撮る行為によって「写る」ものであり、写された写真にはなんらかのイメージが表象している。という、これまで「写真」が歩んできた撮影・被写体至上主義的なステレオタイプな「写真」の延長線上にこれからの写真を説明しようとするのはナンセンスなのである。
また、仮想世界(バーチャル)は現実世界(リアル)の対をなすものではない。すでにバーチャルとリアルとの境界は曖昧となり、メタバースによってその境界はいずれ「ゼロ」となる。バーチャルと対をなすのはリアルではなくフィジカリティ、すなわち「身体性」にあたる。
撮影しなくとも「写真」となるには何が必要か。大学院の先輩で、現在博士課程に在籍する北桂樹氏は、D1時の紀要『ワリード・ベシュティの思考の先に見る「これからの写真」』において、ベシュティの作品を通じて「これからの写真」の方向性を示唆している。
その中でベシュティの作品≪FedEx≫に触れ、一見すると彫刻作品のように見える本作の写真性を指摘することで、この作品は「写真」であることを指摘している。
昨年に引き続き、本年も京都芸術大学のギャルリ・オーブにて催されたPOST/PHOTOGRAPHY展。
昨年よりもさらに異質度が増した本展では、誰しもが思い描く「写真」、すなわち撮影によって制作されたものはなかった。
見た目の異質さについフォーカスされがちではあるが、何をどのように制作するのかではなく、何が写真になるのかを実験し、提示することによって検証し、フィードバックしていく場でもある。
写真とはなにか。写真=撮影によって得られるイメージ、という誰しもが信じてやまない当たり前な行為から一旦距離を置くことで、写真の可能性はアップデートされ続けていくのではないかと思う。
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