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【総括】修士課程での学び

2020年初旬。コロナが瞬く間に世界中で流行の兆しをみせ、人類と目に見えないウイルスとの闘いが始まった。

そのとき、私は世界中の経済活動が鈍化すると直感的に感じたのと共に、この機に、いや、今こそ芸術系大学院へ進もうと決意した。

それは、私の将来的なヴィジョンとして、大学や専門学校などで研究・教育などに携わりたいという思いがあり、そのためには最低でも芸術学修士(MFA)を取得しておきたい、とかねてより考えていたからである。


さかのぼること2009年。自然科学系(地学)の大学院を早々に退学したのち、3年かけて資金を貯め、都内の写真専門学校に入学した。当時の私は、写真家として活動して行きたいと考えたうえで選択した学校であった。

卒業後は一般職に就きながら、作家活動を続けてきた。ところが、2017年、長女が誕生して以降生活リズムが一変した。それまで撮影に充てていた時間が全く取れなくなり、撮影することはほぼなくなっていった。

その一方で、当時の会社の同僚からプログラミングの手解きを受けて以降、業務でプログラムを組むことが増えていた。写真は撮らなくなってしまったが、プログラミングで培ったノウハウを制作に活かすことはできないだろうか、と考えて始めた制作のスタイルが現在の主軸となっている。


そして2020年4月。私は京都芸術大学の通信制大学院へと足を踏み入れた。

専攻は「現代アート」。経験も年代もさまざまな経歴の同級生や先輩たちとの対話を通じて、アート漬けの日々が始まった。

写真についてはその動向や歴史、マーケットなど、多少の知識は有していたものの、写真以外についてはほぼ白紙な状態にあった。

さらには、元来私は理系畑で育ってきたため、文章を書くという行為が極端に欠落してしていた。なお、最初の講義のなかでnoteの存在を知り、インプットとアウトプットの練習を兼ねて書き始めたのが当noteを始めたきっかけである。1週間に最低1本を自らに課し、本記事で92週継続中に至る。


修士課程で得られた学びは大別すると3点ある。

1点目は、自らの作品について、客観的かつ理論立てて言語化できるようになったことである。

これまでも作品を制作するたびにステートメントは書いていたのだが、いまひとつしっくりきていないところもあった。

転機は2021年5月。修士論文について、当初はヴォルフガング・ティルマンスとゲルハルト・リヒターに対する制作の動機やプロセスを、ジャック・ランシエールを軸に解体していき、それを修論で書こうと考えていた。

ところが、それでは将来的に私のためにならないしつまらないと一蹴され、「自身の制作について書く」という方向性でまとまった。それも、いままでにないような、絶対的な写真論を展開せよ、という条件付きで。

現在の私の制作手法は、アルゴリズム(プログラム)によって「写真」を「創造」している。それを淡々と、切れ味鋭く書いていく、というものである。

第1章のプロローグに始まり、第10章のエピローグに至るまで、各章それぞれで自身の制作を引き合いに出しつつ、ステレオタイプな「写真」から逸脱した写真の根源的な本質を紐解いていく内容となった。

修論を書き進めていくなかで、これまで禅問答の如く問われ続けてきた「写真とはなにか」という問いに対して、私なりのひとつの答えを出せたことが、大きな収穫であった。

社会人向けのゼミである以上、研究や修論は今後のキャリアや仕事などにとって有益なものでなければならない。こうした指導教官の教えによって書き切った修論は、きっと私のこれからのアーティスト活動の原点となる気がしてならない。


2点目は、対話による学びである。入学以降からコロナ禍であったため、もっぱら対面よりもZoomを介しての方が多かったが、作品との対話だけではなく、人と人との会話によっての気付きや発見、そして自らの考えを発言する素養が身に付いたことにある。

とりわけ、写真だけではなく、展覧会やダンス(パフォーマンス)、マンガや日本画など、全くこれまで触れて来なかった分野において、知見が得られたことは非常の大きかった。

これは、ひとえに通信制大学院の、主に社会人を対象としたゼミであったため、普段の生活では決して交わることのない人々と交流が持てたことにある。

同ジャンルや、似通った経験や思考のグループの集まりでは、新たな対話は生じづらい。同調によって互いの絆は深められるかもしれないが、思考は一定の水準を保ったままになる。それを望んでいる人もいるだろうが、私はまっぴらごめんである。


3点目は、「アート思考」である。そのなかでも「メタ思考」を強化できたことが挙げられる。

いかにものごとを客観的かつ上の次元から捉えることができるか。制作を行ううえで、超越した思考へと跳躍できるのか。

作品との対話にも通ずるところはあるが、作品を観賞し、新たな気付きや発見といったことを得られることが、現代アート作品には求められている。そのため、日常生活では当たり前すぎて見落とされるような事象を、アーティストたちは作品という形態によってわれわれに提示している。

こうした発見を促すために、メタ思考的な発想の柔軟性がアーティストには求められてられているのである。


修士課程も残すところあとわずかとなり、来週末には修論の口述試験が待ち構えている。この2年間で得られたものを糧に、次なるステージへと歩みを進めていきたい。卒業が終着点ではなく、ここからが私にとって本当の出発点なのである。

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