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【研究ノート】調査:ジェネラティブ・アート

制作に際して、調べものをしていた折に見つけた以下の記事。

原文はJason Bailey『Why Love Generative Art? 』、2018年。

記事ではジェネラティブ・アートの系譜をセザンヌを原始とし、キュビズム→未来派・構成主義→ダダ・シュルレアリスム・抽象主義→新造形主義・シュプレマティシム→アルゴリズムへと繋がっていると指摘。

このあたりのコンテクストは「次元」も同様であるといえる。

ジェネラティブ・アートとは、主にコンピュータを用いて制作されたものである。しかし、果たしてそれが「アート」といえるのであろうか。少なくとも私は「アート」であると思っている。

たとえば写真の場合、アーティスト(写真家)がカメラという「機械」を用いて作品を制作する。撮影者(オペレーター)がその機械を操作することによって、最終成果物として写真として出来上がる。すなわち、装置としてカメラを用いていることにほかならない。

絞りはこう、画角はこう、シャッタースピード、ISO感度はこう、といった具合に。写真を作るということは最終成果物を得るために撮影者が設定する、といえるであろう。そしてその写真になにかしらの意味や問いを与えることで、アートへ昇華させることが可能となる。

ジェネラティブ・アートも同様である。コンピュータという機械を用いて、プログラミングによってその機械を操作し、作品を制作する。

ただし、世間一般的に受け入れられにくい点として、記事でも指摘していたように「コンピュータが制作している」と思われているからであろう。

先に触れたように、写真を作るのはアーティストではない。カメラがすることだ。とりわけデジタルカメラが一般普及したことによって、その仕組みを知らなくても、シャッターを押すことでプロのような「良い写真」が写る。現代において写真は「インフラ」と化し、カメラはブラックボックス化したといえる。これは港千尋氏の著書『インフラグラム』に書かれている。

ではなぜ、写真は「カメラが制作している」と一般的にはいわれないのか。それは、カメラを操作しているのが「撮影者の意図」によって決定付けられていると信じられているからであろう。シャッターを押す、という行為がまさにそれに該当する。

プログラミングも同じで、設計をして、コードを書いて、デバッグして、出力する。最終操作がシャッター→「マウスのクリック」に変わっただけである。

おそらく世間一般的に(特にプログラミングをしたことがない人にとって)は、プログラミングは意図するままにコンピュータを操れると思われているであろうが、全てがそうだとはいえない。

確かに正確に挙動することを目的とするプログラミングの方が圧倒的に多いのは事実である。その一方で、乱数であったりカオス理論であったりと、予測不可能な状況をあえて指示することも可能である。そして最終的に得られた成果物の状態(作品の出来)を判断するのがアーティストの役目であり、これも写真と同様であるといえよう。

ただし、見せ方や提示の仕方によっては、その印象が大きく変わることになる。そして、この分野で圧倒的に多いのが、たとえば「pythonを用いて、フラクタル計算をしてこの作品を作った」といったように制作(プログラム)することが目的化しているもの。そして、それをアイデア・コンセプトであると思い込んでいる点にある。

アーティストであるならば、なにかを提示することが前提としてあり、それを表現するために○○といった方法を用いた、となるはずである。もっといえば、制作の方法なんて何でもいい。

もちろん、最初から明確なイメージを持って○○を用いて制作するというのはあまりなく、あれこれやっているうちにこういうのが表現できそう、というケースの方が圧倒的に多い(私の場合は)。

アートと科学はいつの時代も歩みをともにしてきた。GANやAIもジェネラティブ・アートのサブジャンルとして位置付けているように、現代の科学もまたアートの分野で主流となる日がいずれやってくる。

4年前の記事ではあるが、機械学習(AI)によってレンブラントの新作が制作された。

確かに最終成果物を制作したのはコンピュータといえるであろうが、条件(ポートレート、ヒゲなど)を与えたのはオペレーター側である。つまり、決定権は制作者側にある。

先日、余剰次元のサンプルを作ってみたものの、説明的すぎて面白みに欠けるので、ジェネラティブ的なアプローチも視野にいれつつ、再考。


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