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【考察】スナップ写真と盗撮とのボーダーライン

スナップ写真、木村伊兵衛や森山大道、海外ではリー・フリードランダーやゲイリー・ウィノグランドなど、名だたる写真家たちがスナップ的手法によって制作された作品を世に送り出してきた。

ふとFacebookをみていると、何のために撮られた写真かは不明ではあるが、街中で撮影されたスナップ写真とも、盗撮ともとれる写真が掲載されていた。電車内での親子を写した写真。写真家であれば、あれこれと理由をつけて正当化するのは理解できるが、写真家ではないが写真関係者でありながら、明らかに気になったからといった理由で撮られた写真である印象を受けた。

かくいう私も、写真の専門学校時代には、ハッセル(フィルム)でスナップ的手法を用いて街中で行き交う人々を撮っていた時期がある。当時は撮るという行為に対して、ある種使命感的な感覚、および先人たち(主に海外)のクールな写真に魅せられて撮っていた。

そういえば、一度だけ「いま私の後ろ姿撮ったでしょ!」と言われたことがあった。当時は都市で行き交う状況を撮影するスタイルで、特定のフォトジェニックな人を撮ってはいなかったため、ついに来たかとしか思ってはいなかった。デジタルであればその場で確認してもらい、ダメと言われればその場で消去、も可能ではあるが、いかんせんフィルムであったため、泣く泣くフィルムをその場で感光させたのはいい思い出。

とはいえ、当時は写真の専門学校生という立場もあり、「撮る」という行為が写真のすべてであった。スナップとは写真史的にこうしたコンテクストがあり、現代においてこうした意味があるのだ、と。ちなみに、私は偉大な写真家たちのスナップ写真をみることが好きなのであって、被写体として人物を撮影することに対して、実のところ全く興味がなかったのは、また別のお話し。

しかしながら、これはあくまで撮影者や写真関係者からの主張であって、勝手に撮られる側の人間からしてみれば、アートだのコンテクストだのは関係なく、ただただ不快に感じるだけである。つまるところ、写真家や撮る側のエゴでしかない。

とりわけ、インターネットが日常生活の一部と化している現代において、ひとたびネット上に写真がアップされるやいなや、撮影者や被写体の意思とは関係なく、その画像は半永久的にインターネット空間で彷徨い続けることとなる。

法的な内容に関しては当方詳しくないため言及は避けるが、撮られた写真がスナップであるか、はたまた盗撮であるかについてもまた、写真関係者と被写体との意識の度合いに依存しているところが大きいと、私は感じている。

性的欲求を満たすような、明らかに狙って撮影した写真については論外ではあるが、街中で撮影しそれがスナップ写真であるのか、はたまた盗撮であるのか。

ただし、このように考えること自体が、私は写真関連よりの人間であるからであり、写真に携わらない一般の人々からすれば、スナップ写真であろうとなかろうと、自分の意図せぬ状況下で勝手に撮影された時点で、それは盗撮に値すると思う。

しかも、写真家のなかには、自分が他者を撮ることは必要善と思っているのに対して、被写体として写真家自身が撮られるのを嫌う場合があるというのは、まったくもって本末転倒である。

写真はシャッターを押せば勝手に写ってしまう。しかも現代においては、インターネットを介して即時的に世界中へと拡散されていく。つまるところ、見ず知らずの人物を被写体としたスナップ写真は写真家のエゴでしかなく、それがたとえ写真史的に正当化したとしても、結局はカメラという武器を武装したハンターでしかない。

こうした状況を生み出したのは、写真のデジタル化とインターネットの普及によるといっても差し支えないであろう。とりわけスマートフォンにカメラが内蔵されたことが大きな要因である。

元々撮る側であった私が、スナップ的な行為で撮られる分にはまだいいとしても、子供が勝手に撮られ、ネット上にアップされることに対しては断固反対する。写真の背景やキーワードからおおよその位置が特定され、身の危険に合う可能性が否定できないからである。

また、Instagramなどで子供の写真を掲載されているのをしばしば目にするが、子供の写真をネットにアップする行為自体ナンセンスであると思っている。

本人がある程度判別がつき、自分自身でアップしている分には自己判断の範疇ではあるが、親が判別のつかない子供をアップすることに対してはネットリテラシーの欠如と言わざるを得ない。

こうした考えは、私自身が親になっていなければ至ることはなかったであろう意識の変化である。

時代が違うから。そういうのは簡便ではある。しかし、それだけではない。それは、ネットリテラシーが整備される前に一般へと普及したことによって、明確なルールが定まってはいないからであると私は感じている。

さらには、かつての写真家たちはアルティザンとしての役割をも担っていたのに対して、カメラがデジタル化したことによって、誰しもが簡単に「写す」ことができるようになったことが挙げられる。特に、スマートフォンにカメラ機能が搭載されたのが影響としては大きい。

撮る→編集する→ネットにアップする。一連の行為が世間一般的には「写真」とみなされ、「写真をする」のが日常生活の一部となった現代。

カメラも、インターネットも、人と人とを繋ぐためのツールである。街中でスナップ写真を撮りたければ、どんどん撮ればいいと思う。ただし、撮影者はその行為に対して他者が納得できるだけの明確な理由や用途が説明できることが、もし写真家を名乗るのであれば最低限の素養ではなかろうか。写真関係者なら、なおさら慎重にしてしかるべきであるはずである。

世界は写真家によって撮られるためにあるのではない。写真家は世界にあるものをカメラという装置を用いて、「写真」という形態に写しているだけにすぎない。そこに、独自の視点や構図など、さも写真家が主体であるかのように誤解されるが、「写真」を作るのはカメラ、もっというとカメラ内に組み込まれたアルゴリズムによって「写真」というものを生成しているのだ。

写真の主体とはアルゴリズムにあり、アルゴリズムを構築した技術者やエンジニアこそが、本当の意味での「写真家」なのである。

こうした考えを述べていたのが、ヴィレム・フルッサー。以下の書籍などが参考になるかもしれない。



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