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【書籍】新写真論

『工場萌え』シリーズで知られている大山顕による新写真論。ひとことでいえば「人間=顔=新写真論」について、気になった部分のみ抜粋、解釈する。

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現在のパトロンは「広告収入」、すなわち広告主がその役割を担っているということ。

HDRのように、複数枚を自動合成したり、前後数枚といったように、もはや写真は「一瞬を切り取る」ものではなくなっている。

たとえばこれは、「スマイルシャッター」(今もあるのだろうか?)のように、カメラが自動で笑顔を判別し、1番状態の良い表情を見計ってカメラがシャッターを切るといったことが挙げられる。そうなるともはや、その写真の著作権や所有権は、撮影者ではなく、カメラそもものであるともいえる。作者不詳ならぬ、撮影者不詳の写真がこうして出来上がる。

最近ではサルの自撮りは誰のものの写真かという著作権問題にも発展していたことを思い出す。

スマホや液晶パネルを搭載したデジタルカメラの撮影では、かつて単眼(片目)で覗き、被写体にピントを合わせていたものが、両眼でモニターを見つめ、モニター上でのピントを見つめている。いうなれば、これは「スクリーンショット」の感覚に近いと大山は指摘している。

しかし、歴史を遡れば大判カメラのビューガラスに映された画像や、さらにはカメラオブスキュラにおいても投影であったことから、そもそも写真は両目で見る「スクリーンショット」として存在していたものである。となると、単眼でカメラを覗いてシャッターを押す方のが異端であったのでは、と述べている。

なるほど、と思う反面、いやまてよ、と思う点もある。一眼レフの場合、確かに片目でファインダーを覗き、ピントを合わせていることにほかならない。では、他方の目はどうしているかというと、人それぞれではあるが、私は目を開いて同時にその風景を見ている。すなわち、カメラの目(レンズ越し)と私の目(直視)とが、異なるフレームを同時に見ているときがある。

確かに大山氏のように静的なもの(建物など)を撮影する場合は、片目で集中して見ていることの方が多い。しかし、動的なもの(スポーツや動物など)の場合は、フレーム内だけに集中していては、先の予測が追いつかず取りこぼすケースが発生する。こうした状況下においては、いうなれば「デュアルモニター」によって状況を把握しているといえよう。

写真は離れないと取れない。また、絵画は手で触れて描いていたものが、写真はカメラという機械を操作して切り取る。しかし写真もまた、現像、プリントといったように「手で触れる」作業によって作られてきた。そしていまでは、スマホのディスプレイ上を直接「触って」操作している。

SNSにおいて重要視されているのは、「どこで撮ったのか」と「誰と一緒か」であり、これらは写真に付随する位置情報などがその役割を担っている。いや、もはやこうした付帯情報が主で、写真(画像)はそれのおまけ(説明するためのもの)であるような感じすら受ける。

鏡は左右が反転している訳ではない。前後が反転している。このことは意外と誤解されている点である。そしてまた、スマートフォンのインナーカメラも同様に前後が反転した映像を写し出している。そのため、自撮り(鏡像)と他撮り(実像)とでは認識のズレが生じ、違和感を感じることになる。我々が普段見慣れている自分の顔はほかならぬ、鏡像の自分なのである。

かつて写真は現像、プリントのように、写真を得る方法として手作業、すなわち必然的に「触る」という行為が生じていた。現在では、この「触る」がスマートフォンのディスプレイを操作し、SNSでいいねを押すといった「行為」に取って変わった。「ディスプレイに映された画像」を「写真」と呼ぶのであれば、現代の写真もまた「触る」ものとして存在しているといえるであろう。

SNSにおける写真の主導権は撮影者ではなく、見る側に委ねられるようになった。見る側は現地にいた訳ではない。

また、写真は「記憶」や「思い出」と深く結び付いていた。それは、フィルムという物理的な制限があり、一般的には特別な出来事の際に撮られていたことが挙げられる。一方で、スマートフォンでは量的な制約から解放された。そのため、写真の役割が「ログ」化している。

写真は撮影するという限定された行為によって、かつて撮られた、という過去の記録の証明として用いられてきた。しかし、ストレージの問題が解消されることで、いつの日にか全記録時代へと突入する日が訪れるであろう。機械が自動的に記録し、後から必要な部分を抽出するといった具合に。

たとえば監視カメラのような固定なものから全球(360°)可能なものまで、ありとあらゆる状況が記録される。クラウド上は画像データの海と化し、データが全てを支配する。そして、監視社会が加速する。こうした画像データに恩恵を受けるのは人間ではない。機械学習としてのAIにとってデータの質と圧倒的な量は、精度をあげるために必要な素材となり得る。

韓国では通称「監視アプリ」と呼ばれるアプリがあり、市民が市民の違反を通報するシステムが整備されている。

上記の記事にあるように、『韓国の警察は「市民のスマホは動く防犯カメラ」』と言い切るほど、スマホは監視社会において非常に適したデバイスである。

行政は市民から確かな情報が届き、通報者には違反者の過怠料発生に対して「ボランティア活動時間認定」を得られるメリットがある。双方にとってWin-Winである、とは全くいえない。常に他者から行動を監視され、それが社会全体に蔓延した環境はまっぴら御免である。不信感を抱く社会に、希望ある未来像など思い描けるはずもない。

日本ではお役所仕事であり、ある意味監視といえば接触確認アプリがあるが、2021/4/30時点で2734万ダウンロードとのこと。1人が複数台所持してダウンロードすれば、それだけダウンロード数は伸びるので、意味をなさないデータではあるが、単純計算で人口割合で20%程度。非常に無駄である。


こんにちの写真とは、人間のためのものではなくなった、それ自体のシステムのことである

スマホでカメラはようやく完成形に近づいた。望んだ画像、すなわち良い写真が考えなくても撮れるようになるのが、カメラの完成形であると。そうした状況下において、写真家としての最後の役割とは「その時間、その場所にいる」ことだと大山はいう。

写真には「いま、ここに」という時間性と場所性を持ち合わせている。撮影者がその写真を撮ったという証明に該当するであろう。写真家であれば、撮影することが最低条件である。しかし、人間のためではなくなった、それ自体が自立したシステムである現代の写真において、写真家が必要な存在(職業)であるとはもはやいえない。

アルティザンとしての撮影技師であれば、その尊厳は担保されるかもしれない。しかし、3大写真雑誌は相次いで休刊し、写真新世紀も本年で一区切りとなる。木村伊兵衛賞や林忠彦賞など、誰が取ったかすら覚えていない&キャリア形成に繋がらない写真賞のあり方になんの意味があろうか。

一方で、地方の写真館などは細々と経営を続けていたり、業界大手のスタジオマリオ(キタムラカメラグループ)などは全国展開するなど、撮影業界において生き残りを図っている。それは、写真を撮ってもらうこと以上に「館」、すなわち衣装貸し業が主たる業務形態であることを指摘している。

撮影→加工→シェア=伝搬・流通といった行為を総称して「写真」とみなしているのだと、現代写真(スマホ写真)について、私はこのように考えている。しかし、「写真とはなにか」という問いにおいては、用途や目的を問われているのではなく、「あなたにとって写真とは、どのようなものを写真と位置付けているのか」という、写真との付き合い方を問われているのだ。それを明確に答えられるかどうかが、アーティストとしての素養を問われることとなっている、と感じている。

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