優しくなくなったね

 私は、自分で言うのも変なんだが、優しかった。とてつもなく。人の文句は一言も言わないで、誰にでもいいところを見つけようと努力する人だった。来る者は拒まずにすべて受け入れる、そんな私がいた。そして私はそんな自分が好きだった。

 この「優しさ」というものは、自己犠牲と表裏一体である。ボランティアなのだ。ギブ・アンド・テイクが成り立っていない「優しさ」なのに、私は相手の笑顔で満足していた。私の少しの行動で誰かを喜ばせられる、それ以上に幸せなことはないと、少し前の私なら自信を持っていっただろう。

 しかし、私は(今となっては笑い話の)失恋をきっかけに、自分の考えを大きく変えざるを得なくなる。何があったのかというと、まあ、理不尽な扱いを受けたとでもしておこう。そしてこう思ったのである。

「この世には私の優しさを受け取るに値しない人もいる」と。

なんと上から目線で尊大な態度だろうか。穴があったら入りたいが、なくても掘って入りたい。しかしながら失恋直後なわけであって、偉ぶって強がっていても私には余裕のかけらもない。何をしていたかというと、思いつく限りの悪口を言って鬱憤を晴らしていた。これでも高校1年生である。誰か、私がすっぽり入れそうな穴をください。

 なんとも幼稚な行動だが、私はこれを通して「人を嫌う」ということをほとんど初めてした。「好きになれない人がいてもいいのか。」そう思ったらなんだか心が軽くなった。

 その時から、私はよりひいた目で人をみるようになった。批判的になったという意味ではない。人の長所を見るところは変わらないまま、短所も見てそのまま受け止められるように成長した。それで好きでなくなる人もいるし、短所があっても仲良くできる人もいるし、短所が愛おしい人もいる。でも、だからってあからさまに態度を変えたりはしない。ただ心のなかで「ここからこっち側には来ないでね」という線を引くだけだ。

 振り返ってみると、私は優しかったのではなかった。この線が引けなかったのだ。こっちに来てほしい人も、来てほしくない人も、だれかれかまわず自分の心のすぐそばまで来れてしまっていた。拒む方法を知らなかっただけなのに、それを受け入れることと解釈して、私は優しいのだと勘違いをしていたに近い。それに気づけてから、なんだか少しばかり生きやすくなった。

 今では私の友達は「あんた、最近優しくなくなったね。」と言う。友達らしからぬ発言だが、私は少しも悲しくない。彼女は「いいと思う!」と続けてくれるのだ。

 そう、これでいいのだ。私だって人間だ、全人類に優しくするなんて難しすぎる。そもそもボランティア的な優しさは、自分に優しくすることをできなくさせる。私が私に優しくするために人に優しくできなくなったのなら、それでいい。自分に優しくできて初めて人に優しくできるものである。

 私は前より優しくなくなった。でも私はただ優しくなくなったのではない。自分を守る強い私に、自分に優しくできる私になった。

 私は、そんな私がすきだ。



#私は私のここがすき

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