ステータスや名声、見た目だけで人としての価値を図られる世の中
皆さんこんにちは、
皆さんは、人と接していてこの人私を1人の人間としてではなく、
”その人のステータスの一部” として私を見ている、仲良くしてくれているな、
と感じたことはありますか?
私はあります。悲しいことに最近は特にヒシヒシと感じます。
もちろんみんながそうではないけれど、私は比較的に出会いの多い職業で
ほんと色んな方々とお会いする機会があるのですが、
その度に見極める力が試されるなと感じます。
仕事の関係だけではなく、友達グループの中にもそういう人がいたりして、
心が辛くなる時もある。
けれどそこに毎度毎度のように傷付いていてもキリがないし、
心も持たない。だから割り切って深く付き合わないようにすればいい。
なのだけれど、やっぱり自分を1人の人として、本質を見てもれえず、
むしろ ”その人のステータスのための商品や物” のように扱われる事が
人生の中で多いと、自分でも自分に対しての価値がわからなくなってくる。
見た目が良くないと、成功してないと、これを持ってないと、
自分は生きる価値がないと、思ってしまう。
私たちは本来、自分を幸せにしながら生きているだけで十分なのに
社会のステータス文化に惑わされて、自分の存在価値が分からなくなってしまう。
私たち一人一人の存在価値はステータス、富、名声、見た目などの
ちっぽけな物では図れるはずがないのに。
歴史的に見ても世の中にはそういう風潮は常にあったし、
そういう人が絶えることはないと思う。
そして、ビジネスにおいてどうしても人を見る時も利益を考えてしまうのは
仕方がない。そうしないとビジネスは成り立たないから。
会社が人を雇うと時、その人に会社にとっての利益があるから雇う。
ビジネスにおいて相手人とのコネクション作りは大切、
そこでもやっぱり利益があるからコネクションを作る。
そこから本当に仲良くなったり信頼のできるパートナーになったりする事も
あるだろうけれど、でもやっぱり関係の始まりは利益の有無。
神経質になりすぎるのも良くないけれど、たまに人間不信に陥りそうになる。
だって世の中そんな人ばっかりだし、私の出会いはそういうのが多いから。
出会いが多いかこそ、見極めないといけない回数も多い。
疲れちゃうし、心が疲れ始めると無駄な思考が働き始めて人間不信にもなる。
上手い言葉や態度で私の心に中に入ってこようとする人もいるから、
常に見極める目は休めない。
とはいえ、最近は人が私を利用してようがなかろうが、
結局私がその場を楽しめていたらいいやって割り切るようにしている。
信頼できる人はいるのかと言われると、多くはいないけれどそれでいい。
私は人ひとりの存在価値をちっぽけな物差しで図らない人間であるようにと
肝に銘じてこれからも生きていく。
きっとどんな人でも無意識にやってしまう事だから。私はそれを責めない、
けれど人ひとりの存在価値をちっぽけな物差しで図らないっていうのは
常に念頭においておくのが大切なのだと思う。
そうすることで自分自身に対しての存在価値を見誤る事もないし、
そうやって利益だけを求めて寄ってくる人も見極められる。
心の純粋な人達が生き辛いこの世の中。
今も昔もそれは変わらないし、これからも変わらない。
だから私たちは強く、賢くないと潰されちゃうし、波に飲み込まれて
息ができなくなる。世知辛い。
それでも今日も竹のように強くしなやかに生きていく。
そして川のせせらぎのようにさらさらと流れる時もあれば、荒波のように何かに立ち向かう時もあったり、時には飲み水や温泉、海、川のように誰かもしくは自分自身の人生の癒しや潤いになったり、水のように色んなフォームに変化しながら臨機応変になるのも大切。
今日も一日楽しみましょう!
最後まで読んでくれてありがとうございました☺︎
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