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気がつけば都合のいい女、のループについて

かける時間と労力と金銭が少なくて済む女
わがままを受け止めてくれて、呼び出せば来て、やることやってくれる女

元から、そうなることを望んでいたわけではもちろん無い。
気づけばこうなっているのは、しかも複数人に対してそうなっているのは、わたしのメンタリティに問題があるのだろうか。

Win-Winな関係で。と思って始めたはずのことだった。
割り切った関係だと元から互いに共通認識を持っていたはずだった。


連絡がくれば、こちらの予定も状況も鑑みず、すぐに飛んでいくようになってしまった。目の前に困っているひとがいれば放っておけなくなる、頼まれれば断れない、わるい性格があるからかもしれない。

渋谷のバーで店員のお兄さんに、話し始めて、1分足らずで「お姉さん、悪いオトコにひっかかるタイプっすね」と言われた記憶が蘇る。お兄さんは続けて「ひっかかるのも困ったもんすけど、そういうオトコは、お姉さんみたいな人間をひっかけるプロだから。かかるのも仕方ない。」とフォローするように言ってくれた。まだそういう経験があるという話はひとつもしていないはずだった。


時間を経るうちに、情というやつが湧いてしまった。ことの前後に、こちらが聞かずとも、日々の困りごと、つらいことをボソボソとただ話してくれることに、あたかもわたしが相手にとって貴重で、大事で、必要な存在かのように思ってしまった。


目の前のこのひとに「No」と言えば、このひとは誰に困ったと言うのだろう。目の前のこのひとに「No」と言えば、わたしのことを誰が求めてくれるんだろう。「No」とさえ言えば、終わるはずのこの関係の脆さに、少し悲しくなる。次の出会いだって、探せばいくらでもあるだろうに。まるで唯一無二の存在のように思い込んでしまう、ただその一言を言えないこの脳みそは、わたしは、一体何なんだろうか。


自分でも気づかぬうちに「Yes」と言うだけの選択を積み重ねた結果は、そりゃあハッピーエンドになることはない。

相手に合わせるだけ合わせて、誰かと出会うはずだった機会、好きなものやことに費やすはずだった時間やお金はもちろん失っている。

自分が「相手のニーズの消化のため」に「消費されている」ということを自覚した瞬間に、元々あって無いような自尊心は、その破片を見つけることすら難しい。


健全な関係とはなんだろうか。
わたしの想像していた「Win-Winな関係」とはなんだろうか。

少なくとも、最初の数回は「消費されている」という感覚は無かったはずだ。
いつの間にこうなってしまったのか。

相手のニーズに応えるということをし続けた結果、そこにわたしの意思は何もなかった。
自分のニーズ―自分の大切にしたいものを大切にするという最もシンプルなことを守る。割り切った関係であればそれさえできていれば良かったような気がしている。それは「No」かもしれないし、わたしからの何らかのリクエストかもしれない。
わたしにだって、このひと以外に大切なひとも、ものも、こともある。大切なことが、自分のことを守ってくれるような気がすると、今度また渋谷のバーに行くときには話してみようと思う。







========== B面 ==========

かける時間と労力と金銭が少なくて済む女
わがままを受け止めてくれて、呼び出せば来て、やることやってくれる女

元から、そうなることを望んでいたわけではもちろん無い。
気づけばこうなっているのは、しかも複数人に対してそうなっているのは、わたしのメンタリティに問題があるのだろうか。

Win-Winな関係で。と思って始めたはずのことだった。
割り切った関係だと元から互いに共通認識を持っていたはずだった。

フリーランスの受託案件というのは難しいものである。
とくにわたしはエンジニアでもデザイナーでもなく、秘書やコンサルタントのアシスタントというような、いわゆる事務作業系や企画系の業務を請け負っていたため、仕事が生まれればあるいは見つけられれば連絡が来る、というような形で仕事を受けることが多かった。

どの相手も最初は「◯◯の業務をこの納期で◯円で」という単発の案件依頼で、それもわたしがスキル的に伸ばしたい業務、興味のある分野など、フリーランスであるのをいいことに、互いにWin-Winな仕事のやり取りであった。

連絡がくれば、こちらの予定も状況も鑑みず、すぐに飛んでいくようになってしまった。目の前に困っているひとがいれば放っておけなくなる、頼まれれば断れない、わるい性格があるからかもしれない。
渋谷のバーで店員のお兄さんに、話し始めて、1分足らずで「お姉さん、悪いオトコにひっかかるタイプっすね」と言われた記憶が蘇る。お兄さんは続けて「ひっかかるのも困ったもんすけど、そういうオトコは、お姉さんみたいな人間をひっかけるプロだから。かかるのも仕方ない。」とフォローするように言ってくれた。まだそういう経験があるという話はひとつもしていないはずだった。

しかし、気がつけばあたかもその組織に所属しているように、あたかもその個人の秘書であるかのように、依頼が多く、そして雑に来るようになった。それ自体はありがたいことではあったが、元々すり合わせていた「興味」や「専門」とは全く異なる分野の仕事の依頼もあったり、コミュニケーションがなあなあなまま、初回価格のままでより高度な仕事を請け負うこともあった。
それでも一度仕事を依頼してくれたひとの困りごとを断るのは、性に合わないようにも思ったし、なにより時間もあったのでとりあえず請け負っていた。

渋谷のバーでは、仕事でもなく、恋愛でもなく、ただ趣味の話をしていたはずだった。お兄さんの見る目があるのか、わたしのダメさが漏れ出ているのか、気になるところである。

時間を経るうちに、情というやつが湧いてしまった。ことの前後に、こちらが聞かずとも、日々の困りごと、つらいことをボソボソとただ話してくれることに、あたかもわたしが相手にとって貴重で、大事で、必要な存在かのように思ってしまった。

気がつけば、週にいくつか入れていたミーティングが、それぞれおじさんの苦しみを共有されただけだった週もある。相手にとっては、自分の組織の人間ではないわたしは、発注先ではあってもある側面では「利害関係がなく」フラットに愚痴をこぼせる相手だったのだろうと思う。

目の前のこのひとに「No」と言えば、このひとは誰に困ったと言うのだろう。目の前のこのひとに「No」と言えば、わたしのことを誰が求めてくれるんだろう。「No」とさえ言えば、終わるはずのこの関係の脆さに、少し悲しくなる。次の出会いだって、探せばいくらでもあるだろうに。まるで唯一無二の存在のように思い込んでしまう、ただその一言を言えないこの脳みそは、わたしは、一体何なんだろうか。

「No」と一度断れば、もう仕事が来なくなるのではないか、という気持ちがあった。本業は別にあって、それだけでも十分食べてはいけたし、副業先だって探せばきっといくらでもあるだろうに、断るということができなかった。ありがたいことに、尊敬できる方々から仕事をいただいていたのもあって、もし仕事がなくなって、関係性が切れるというのも、悲しさがあった。

それぞれのおじさんの愚痴タイムで、ひとがいないという話もよく聞かされていた。あまりの忙しさに、体調を崩し始めたという話もよく聞いていた。ここでわたしが仕事を拾ってあげなければ、彼らはまた体調を崩してしまうのでは、という気持ちもあった。
ただこれを書きながら、自分のあまりに自意識過剰でおこがましい在り方を少し恥じている。

自分でも気づかぬうちに「Yes」と言うだけの選択を積み重ねた結果は、そりゃあハッピーエンドになることはない。

相手に合わせるだけ合わせて、誰かと出会うはずだった機会、好きなものやことに費やすはずだった時間やお金はもちろん失っている。

自分が「相手のニーズの消化のため」に「消費されている」ということを自覚した瞬間に、元々あって無いような自尊心は、その破片を見つけることすら難しい。

これもできるんだ!じゃああれも頼もう!
というのが依頼の流れとして一番多かった。
仕事の内容も進めながら詳細がわかることも多く、データ打ち込みや資料作成のようないわゆる事務作業から、企画など多少クリエイティビティを求められる仕事まで、同じ単価でやってしまっていた。

安くて時間の融通がきく、オンラインでやり取りができて面倒でない。
自分の組織の人間ではないから、育成のコストもかからないし、かけなくてよい。評価だってしなくてよい。

短納期で請け負って、胃がキリキリする日々。生活も不規則になる。
評価のない世界のなかで、安く案件を受け「ああわたしの仕事はこれくらいでしかないのか」と思ってしまう。
ありがたいことに、わたしを仕事相手として尊重してくれているひとが多かった。だからそんな風に思っているはずも無いんだろうと思う。
ただ、そうも取ることができる状況が少しずつ、わたしの心を砕いていったし、ただ断るだけで自分の身を守れるはずなのに、目の前の依頼、目の前の困っているひと、いま求められているその安心感にいっぱいだった。

健全な関係とはなんだろうか。
わたしの想像していた「Win-Winな関係」とはなんだろうか。

少なくとも、最初の数回は「消費されている」という感覚は無かったはずだ。
いつの間にこうなってしまったのか。

相手のニーズに応えるということをし続けた結果、そこにわたしの意思は何もなかった。
自分のニーズ―自分の大切にしたいものを大切にするという最もシンプルなことを守る。割り切った関係であればそれさえできていれば良かったような気がしている。それは「No」かもしれないし、わたしからの何らかのリクエストかもしれない。
わたしにだって、このひと以外に大切なひとも、ものも、こともある。大切なことが、自分のことを守ってくれるような気がすると、今度また渋谷のバーに行くときには話してみようと思う。

「フリーランスの事務員」に依頼するのには、人件費を抑えたいという目論見もあると思う。雇えばかかるあらゆる保険料を負担しなくてよいし、もし仕事を渡さなくなったとて、「派遣切り」のような悪いイメージにはあたらない。

それを分かっていて、怖さもあっただろうと思う。
それを分かっていて、雇えないほどギリギリの社内事情をあまりに配慮して低価格で仕事を受けてしまったところもあると思う。

働くために生きているわけでも、生きるために働くわけでもなく、ただ生きていて働いているはず、それだけのはずなのに、自分の自尊心を砕く必要も無いのだと思う。

「都合のいい女」―一度成り下がると抜けられない沼、にも思うが、ただひとつ自分の意思を尊重できるようになったそのとき、わたしはしあわせになれるような気がしている。

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