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日本人は赤信号で止まりすぎる。


ドイツに滞在していた頃、大学からほど近いバーで、友人と「ドイツあるある」について話し合ったことがある。インド人の彼は、「ドイツ人は皆、歩道の赤信号に従う」と言った。なるほど、インドでは歩行者用信号なんてあってないようなもので、車やバイクの間を縫って進むのが常識らしいことはすぐに想像ついた。

彼曰く、「赤信号は人間の認識能力のうちに存在するのであって、人のマークやら赤色が僕らの行動を規制することは、全く馬鹿げている。だから、『車が来ているな』と認識したら止まるし、そうでなければ道路を横断するだけだ。」とかなんとか言っていた。僕は間をおいて「同意するよ。」と言いながら、しかし心中では「嗚呼、違う違う」と思っていた。


日本で育った僕からすれば、ドイツの人間は信号を守らない。律儀に信号を守るのは老人と子連れの親くらいで、それ以外(ましてや若者)にとって、ほとんどの場合赤信号は青信号を意味した。

それでも「ドイツ人は交通ルールを守る」という認識はわりかし世界共通にあるようで、日本に帰国してからも、「日本人とドイツ人の共通点」とかいった素人ブログをスクロールしていると、高確率でそれに出会った。


では、「ドイツ人は赤信号で止まる。」とすれば、日本人は何なのだろうか。「日本人は赤信号で止まりすぎる。」だろうか。



記号学的アプローチ


この世には、考え付き得る限りほとんどの全ての学問が存在している。これは、大学に「うどん同好会」やら「泥団子研究会」やら、まるで森羅万象の事物を網羅してしまうほどのサークルがあるのとほとんど同じである。今、食べ終わったお菓子の包装紙を綺麗に畳んでいるこの瞬間にも、幾多の論文が発表され、学会が開かれ、または泥がこねられているのだ。


記号学(セミオロジー)は、言語学の一種として20世紀に成立した比較的新しい学問である。

旺文社の国語辞典第十版には、

①言語・映像・音楽など、表現されたすべてを記号としてとらえ、その構造から文化全体を分析する学問。
②①の一分野。記号・対象・使用者の関係を、構文論(統辞論)・意味論・語用論に分けて研究する。

とある。この定義に従えば、「赤信号」はもちろん記号学の対象である。



ウィラード・ファン・オーマン・クワインは、著名な哲学者で、記号の意味論をさらに推し進めた人物の一人である。彼は、記号の表す意味について、「人間が記号を用いて行うところの外的事象への指示作用(大森ほか 1986:  57)とした。これはつまり言い換えれば、「記号の意味作用は、人間(使用者)から、とある事物に向かう矢印」として表せるということだ。

これは、赤信号を「停止せよ」という意味で用いる人間の集合体としての社会を使用者とした場合に、発信者主観的発し手に立った理論と言えるだろう。



社会学的アプローチ


一方で、社会学には行為理論と呼ばれるものがある。ドイツの社会学者、ウェーバーによれば、「あらゆる社会現象は諸個人の社会的行為の集まりであり、諸個人の社会的行為に分類できる(友枝ほか [2017] 2020: 24)とした。

この時、例えば赤信号で止まるという交通ルールは、実は諸個人の社会的行為、すなわち我々一人一人が赤信号で止まるという行為の集合と言えるのである。

これは、赤信号の意味するところを諸個人がどう受け取り、行為するかという解釈者主観的受け取り手に立った理論と言えそうだ。



「赤信号」は記号学か社会学か


この問いに正解はない。否、むしろこの問いを生み出すこと自体が「正解」なのかもしれない。

つまり、一つの事物・事象を、二つの(あるいは無制限の)異なる視点から観察することは、学問のあるいは私達の日常生活世界においてでも、いつだって善である。


赤信号を記号学的に——「赤」や「人のマーク」が私達に伝達された時の意味世界の解明——、あるいは社会学的に——赤信号を守る諸個人の行動規範には「目的」が、「価値」が、「感情」が、はたまた「伝統」があるのか——分析する。

それと同様に、我々は赤信号を、ドイツ人的に——赤信号で止まる——、インド人的に——赤信号で止まらない——、日本人的に——赤信号で止まりすぎる——分析するのである。


そしてそれ自体に、その多面的なアプローチにこそ、探求の本質はあるのだろう。


僕が、「日本人は赤信号で止まりすぎる。」と形容した(出来た)のは、ひとえに異なる視座を得た時、それを相対化・多面化出来たからである。



こんな話がある。

中世ヨーロッパで、キリスト教が国教として指定され、それ以外の宗教が異端として排除された時、異端派たちは不幸な道をたどった。

それは単純に、迫害され、信仰の自由を奪われたからではない。異端者たちは(文字通り)地下に潜り、信仰を続けたわけだが、自らの宗教を相対化できなくなった彼らは、よりその組織を閉鎖的に、排他的に、エゴイスティックにしていった

自ら首を絞め、守りも出来ない律法を成立し、ことごとく視野を狭めていったのだ。



日本人が赤信号で「止まりすぎる」時、赤信号で「止まる」のは誰か、赤信号で「止まらない」のは誰か。

その存在を知覚するには、己を相対化し続けなければならない。


[文献]

大森荘蔵ほか, 1986, 『新・岩波講座 哲学〈3〉記号・論理・メタファー』, 岩波書店.

友枝敏雄・浜日出夫・山田真茂留, [2017] 2020, 『社会学の力 —最重要概念・命題集—』, 有斐閣.



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