大学生活の1/4を失った僕らは今、1/2を失おうとしている
3月に入り、各大学は新学期の方針を示し始めた。
全科目オンライン、対面とオンラインのハイブリッド、あるいは完全対面。
大学によって対応はまちまちだが、都内の大規模な大学で全ての授業を対面で行うということはほとんど無い。
また、実験や実習の多い理系では必然的に対面が多くなり、講義の多い文系ではほんとんどオンラインになる、という文理間の格差も懸念されている。
都内私立大学の文系学部に通う私も、恐らく週に一回の対面が良いところといった感じである。
僕らは、既に1/4の大学生活を犠牲にした。そして今、それが1/2にまで増幅されようとしている。
僕らにとって大学生活とは何なのか?
僕らはどうして大学に通えないのか?
感染拡大を防ぐためという大義名分は置いておいて、僕らには確実に失ったものがある、ということを今一度全ての学生は考える必要がある。
休み時間の偉大さ
大学一年生で履修した第二外国語の授業を僕はかなり明瞭に覚えている。
30人程度のクラスで、陽気な先生からフランス語を学んだ。
僕らは英語以外の言語を習うことにこれ以上ないほど興奮していて、「これが大学かぁ」などと感慨に浸っては、「r」の発音に苦戦していた。
そんな折、あれは確か梅雨に差し掛かる前の6月の授業終わり、仲の良かった数人と好きな本の話で盛り上がったことがある。僕は歴史小説の魅力を語ったし、ある人は哲学書を、またある人は漫画への愛を語っていた。
そこで僕らはお互いに本を交換しようという話になり、僕は上中下巻にもなる分厚い皇帝ユリアヌスの小説を貸したし(結局まだ返してもらっていない)、逆にカルヴァンの思想本を借りたりした。
他人から本を借りることなど無かった僕は、そのカルヴァンの本がいかに特別であったか覚えている。それは単に本の内容に感銘は受けたということではなくて、感想を共有する相手がすぐそばにいることに他ならなかった。
僕はそれが嬉しくて、それから図書館で借りた本を勧めたり、逆に勧めてもらったりした。
一年次が修了して僕らは自然と連絡を取らなくなったが、それでもなお、あの時に得た学びの喜びには代えがたい愛情を持つ。
あの休み時間は僕にとって大学生活の醍醐味であるのだ。
僕は大学のどんな授業よりも、この事を一番に思い出す。
圧倒的な権力差
僕らは弱い。それも、”とてつもなく”。
昨年の春、大学が全面オンラインに移行した時、多くの学生が大学側の対応に首をかしげた。授業料が据え置きだったからだ。
そこで学生は授業料減額を求めて声を上げた。それも世界中で。事実アメリカのいくつかの大学では、減額を勝ち取った学生がいた。
ただ、日本でその運動の「成功」を耳にしたことはない。ほとんどの大学は学生の声を無視するか、あるいは学長名義の薄っぺらい文章を発表して終わらせたのだ。
「授業料は卒業するのにかかる費用であるために、オンラインか対面かは問わない~」だとか、「施設利用料は施設の維持に欠かせない~」だとか御託を並べて、結局は自身が権威あるものだと示しただけだった。
授業料減額の議論の際には必ず、「先生方も慣れないオンライン授業を頑張っているのだから」とか「先生方も時間外労働を強いられているのだから」といった批判が見られる。
なるほど、彼らの理論によれば、ただレジュメを読み上げるだけの何の工夫もない授業を先生方は”頑張って”作っているらしいし、学びの機会を失われた僕らは大学教授の給料まで気にしなきゃいけないらしい。
つまり、僕らは圧倒的に弱者なのだ。
大学は表向きには「自立ある個人を目指せ」と言いつつ、実際には学生は大学に「隷属する者」としてしか見ていない。そこにはいつでも、とてつもない権力格差が横たわる。
社会学者ブルデューは、『教師と学生のコミュニケーション(1966年)』の中で、フランス高等教育における権威主義を批判している。
彼によると、教師は学生は何も知らないという体で話すし、学生は何も知らないという体でそれを聞くという相補的な作用が働いているという。そして、その構造は「再生産」されていく。なぜなら、お互いにとってそれが一番楽だからである。
大学は授業料を減額したり、あるいは対面授業を実施するにはあまりに怠惰であるし、学生も改革を求めて抗議するにはエネルギーを消費し過ぎるのだ。よって、現状維持はウィンウィンとさえ言える。
減額の署名を集めたような一部の学生でさえも、60年代のように授業をボイコットしたり、あるいは大学に立てこもるパワーなど無かった。
そう、僕らには不条理を正すほどの気概がないのだ。僕らは圧倒的にポンコツで、権力に隷属するという道を自ら選んだのだ。僕らはまずそれを知る必要がある。
僕らは可哀想ではない。
大学生活が台無しになって、あぁ私たち可哀想。好きなこと制限されて不憫だね、私たち。
違う。僕らは可哀想ではない。実に惨めなのだ。
多くを諦めさせられ、それでもなお反抗出来ない僕らは惨め以外の何でもない。僕らは授業の内容の外にあった豊富な学びの機会を失ったのだ。
休み時間に本を交換したこと。
学食での食べ物の好き嫌いから、気づけば貧困問題について語っていたこと。
たまたま同じ授業を履修した人から国際交流プログラムに誘われて、今やそのプログラムの企画・運営まで行っていること。
掲示板のポスターにあったメアドに連絡したら、入管局の根深い問題について知ることが出来て、今そのテーマで卒論を書こうとしていること。
どれも僕が授業の外で経験したことである。
もし僕が大学一年生の頃、大学が全面オンラインであったらと考えると、もはや血の気が引く。この全てを失って今の僕はあり得ない。
時間が進めば進むほど、大学本来の学びを知る世代が大学から卒業していく。そのうちには「効率化」という悪名高き言葉によって、全ての「余剰」が排除されてしまうのではないか。
余剰から生まれる学び。無駄から気づく価値。
僕らが失うものは、楽しいサークル活動や図書館の利用権だけではない。学びの本質それ自体を失うのだ。
学びが形骸化した時、大学に存在価値はもはやない。そして、僕らは学問を誇れなくなる。
僕らが失った1/4、そして失うかもしれない1/2は、学問そのものの1/4であり、1/2であるのだ。
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Photo by Devon Divine on Unsplash
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