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世の中には三つのものしかない。必要なもの、必要ないけど欲しかったもの、そして必要ないし欲しくもなかったけど価値あるもの。


最近はコロナ禍で急増したネットショッピングも落ち着き、今はモノで溢れた部屋と頼りない額面を記した通帳が手元に残っている、なんて人はきっと多い。

僕は、ターンテーブルだったり、スピーカーだったり、中古のファミコン(!)だったりを買った。

ターンテーブルとスピーカーは、祖父から譲り受けたYMOのレコード達を生かすために「必要」だったし、ファミコンは必要ではないけど、持て余した時間をノスタルジックに消費するには「あって欲しい」ものだった。


さて、そう一つ一つのモノたちと僕の間にある関係性を見直してみると、やはり僕の部屋には大別して3つのモノしかない。

必要で手に入れたモノ、必ずしも不可欠ではないが欲しくて手に入れたモノ、そして、必要ないし欲しくもなかったけどなぜか今手元にあるモノ



僕にとっての「必要ないし欲しくもなかったけどなぜか今手元にあるモノ」


今自室に居る人は、この「必要ないし欲しくもなかったけどなぜか今手元にあるモノ」を是非探してみて欲しい。

買ってから一度も使っていないのに、目のつくところに置き続けているアボリジニの民具とか、箱根で買ったものの箱から出してもいないシリコン製のストレス解消たまごとか、そういうものである。


注意すべきは、それを手に入れる時点から一度も、「1.必要だと思っていない」「2.欲しくもない」「3.使い道がわからない」という点だ。


僕の部屋にはこれにぴったりと合致するものがある。

ストロボである。

そう、あのカメラに取り付けるとフラッシュを焚いてくれる、小さな黒い箱だ。説明書はなく、どう使うかさえわからない。そのただひたすらに黒い箱が、机の端に鎮座して久しい。


もちろん、家にはカメラが数台あるが、どのカメラにもストロボを付けられない。だから、この黒い箱が日の目を見ることは、これまでも、これからもきっと無いのである。

そして、デザインが優れているとか、いつかこれを装着出来るカメラを買いたいだとか、そういうことも一切ない。だから、この黒い箱は欲しくもなかったのである。

でも、今ここにある。僕は確かに、使い道のないこの黒い箱を買ったのだ。



その黒い箱との出会い


「旅行(trip)」じゃなく「旅(travel)」がしたい、という人がいる。つまり、有名な観光地のような”ミーハー”な場所に行くのではなく、知る人ぞ知る秘境を目指すような人のことである。こうした人々は往々にして世間から煙たがれるわけだが、残念ながら僕もその「旅人」の1人である。


2020年2月中旬、友人らとプラハを訪れた際も、僕は彼らの制止を振り払って、裏路地へと向かっていった。

いかに、不当に高いレストラン街や騒ぎ立てる団体客から離れ、アンダーグラウンドに潜るか。他者を寄せ付けない排外的で閉鎖的な雰囲気に踏み込む、僕だけの禁じられた遊びである。


中心街から30分ほども歩いた時、一件のバザールを見つけた。

小綺麗に整えられた外装の割に、煩雑に並べられた店内の骨董品は、この店が観光客に向けて開かれたものではないことを物語っている。

店内からは老夫婦が、外にいる僕らをじっと睨んでいた。

「旅人」と名乗っておきながら、秘境に入るときにはいつも躊躇する。一瞬、やっぱりこのまま歩いて通り過ぎよう、と思う。本当にそのまま歩き去ってしまうことも、10回のうち2回くらいはある。でも今回は残りの8回だった。


ドアを開けると、気圧差で店内のほこり臭い空気がこちらに向かってやってくる。老夫婦は僕らが入ってくると、そそくさと各々の仕事、老婦人はカウンター周りの小物整理、老父人はビンテージのカメラ磨き、を始めてしまった。僕らはそれが気まずくて、彼等からは見えない店の奥まで進まなければならなかった。

奥には、古い陶器の皿や銀食器が平積みされていた。いくつかは既に欠けていて実用性のないもので、いくつかはとても綺麗だった。その横には段ボール箱が3つあり、中にはブリキの車やカラフルな木琴といった古いおもちゃが役目を終えて捨てられる日を待っている。

あとのスペースは自転車や家具など、明らかに旅行者には適さない品物ばかりで我々は退屈した。だから遂に(この時も相変わらず、老夫婦のどちらも言葉を発さず作業をしていたが)、我々はカウンター前のスペースに移動した。そこにはアクセサリーや時計などの小物が、ここは何故か全てが整理整頓されて、ガラスケースに並べられていた。その陳列で、この老夫婦にとって家具やオモチャなどはオマケでしかなく、ガラスケースに並べられたものだけが彼らにとっての財産であるとわかった。


カウンター前に来ると、婦人は意外にも優しい声で「ニーハオ」と言った。普段なら少し反抗的な気分で「Hello」と返すところだが、ぶっきらぼうな顔から発せられたあまりに優しい口調に圧倒されて、僕はニッコリと笑ってみせた。婦人は続け様に「ゆっくり見てって」と、今度は英語で言った。僕は「Thank you」と言ってから、安心してカウンター前のショーウィンドウを覗いた。

丁寧に磨かれた古い懐中時計や指輪、帝国時代のコインが並べられている。このうちのどれかを一つでも持っていれば、僕が死んだ時、それを子供たちに形見として渡すことが出来るだろう。「これはね、父さんがプラハの骨董屋で見つけた大事なものなんだ。」

僕は「この懐中時計いくら?」と聞いた。「10,000コルナだよ(約5万円)」と老婦人は言った。僕の夢は一瞬にして消えた。ここで買えるものは何もない、と僕は消沈した。


そのまま歩いて店を出ようとした時、僕は入り口横にも同様のショーウィンドウがあるのに気づいた。入ってくる時には全く視界に入っていなかったものだ。そちらには、古いフィルムカメラやカメラ機材があった。ついでだからと、それらも鑑賞することにした。

カメラも——老父が大事そうに磨いていただけに——同様に高いだろうと感じた僕は機材の方に目を移す。そこにあった露光計やレンズなどは、比較的煩雑に置かれていて、その様を見て、僕はこの老父の性格をつかみ取った気になった。きっとこれらは安い。

もう少し近くで見たいから、と言ってウインドウを開けてもらった僕は、一番興味のない品物を手に取ってみた。それが紛れもなくあの黒い箱で、僕がそうしたのは(いや、そうさせられたのは)、きっとこの中で一番安いからという理由でしかなかった。


この時の僕には、それを買う以外の選択肢は既に無かった。「『何か良いものがあれば買おうかな』から『何を買おうかな』」へ、「『何を買おうかな』から『何か買おう』」へ、僕の気持ちは自然とそうさせられていた。それこそが、この閉鎖的な骨董屋が商売を続けていける理由かもしれなかった。

だから僕は、型番も、どうやって使うのかも、果たして動くのかどうかさえ聞かずに、その箱を買った。



文脈だけを持った物質の偉大なる価値


失敗を失敗として認めたくないがために、価値を後付けすることがよくある。「失敗は成功の基」は全く以て、万人の人生を肯定してくれる素晴らしい言葉である。しかし、僕が求めていた価値は、僕から与えられるものではない。モノ自体に宿る価値なのである。


さて、このストロボに僕の部屋の、少なくとも10センチ四方を占領する価値があるのかどうか、僕はずっと考えた。多分、ほとんどの人が、失敗した買い物への後悔に費やす時間よりもよっぽど多くの時間をかけて考えた。


そして今、およそ10か月の熟考の末、一つの大きな価値をそれに見出すことに成功した。


つまり、必要でもなければ欲しくもない物体が持つ唯一の価値は、その文脈なのだ。もっと言えば、必要性や欲望に圧迫されない、純粋な形でのコンテキスト——この黒い箱に関して言えば、僕がプラハを訪れ、新奇な店に入り、老夫婦と会話し、動いた感情の全て——をそれは内包しているのだ。


思うに、物質には人間感情のキャパシティーがある。とある物質について、我々は多様で多量な感情を注入するが、それがキャパシティーを超えた時、バケツから水が漏れるように、抱えきれない感情は外へ漏れてしまうのだ。

必要性や欲望で半ばまで満たされたバケツは、あと半分の余地しか持ち合わせていない。その半分の余地に、人が文脈(記憶と読み替えても良いかもしれない)を注いでいく時、外に漏れゆく感情は下水道に流され、当人からは永久的に遠ざかってしまうのだ。


このストロボには必要性も欲望も内在していない。この物質のキャパシティーの全てを、僕は僕の文脈だけで満たすことが出来るのだ!

僕の周りにはどれだけ文脈だけをまとった物質が存在しているか。決して多くないはずの存在が、絶対的に貴重な価値を持つことは言うまでもない。今ここに、僕は「必要ないし欲しくもなかったけどなぜか今手元にあるモノ」の価値を証明せしめた。


だから結局、僕はこの黒い箱に自信を持って、「買ってよかった」と言えるのだ。


(終)





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