見出し画像

理想の家族をやめる

いろいろなことが重なり、なんと4日間も家出をした
こどもが生まれてから
こんなに家族と離れたのは初めてかもしれない

寂しくなるのかと思いきや、なんだかとても快適で
家事も育児も手抜きをしていたつもりだったが
もしかするとひとりで立ち止まって考える時間が
圧倒的に足りていなかったのかもしれない

そんな家出中にひとり考える中
家族のありかたについてひとつの答えのようなものが出たので
ここに書き留めようと思う

それは
これまでの家族を終わりにするということだった




子育ては任務である


わたしにとって子育てというのは
思っている以上に負荷がかかっているのかもしれないと
ひとりになった開放感から感じた

自分の人生を歩き始めた今
思うように時間を使えないことで
子育ては大きな障害になっているとも言える

しかし時間がたくさんあったにも関わらず
何も行動できずに立ち止まり続けた20代からここまで成長できたのは
子育ての経験から得たもののおかげでもある

逃れることのできない子育てを約10年続けて
逃げ出せない環境が私を成長させた

そして今後
どんなに子育てが負担に感じても
わたしは引き続き子育てから逃げることはない

こどもたちが大切だということはもちろんだが
自分がこの世に生み出した人間を
自分なしでも生きていけるようになるまで育てるのが
わたしの任務であり責任だと、ただ感じるからだ

子育てが任務だなんて
他人が聞けば冷たいと思うかもしれない
けれどこの感情こそが事実なのだ

こどもとの、家族との日々を
愛おしく感じるということはもちろんあるが
それよりも自分にとって困難だと感じる割合のほうが多いかもしれない
自分でも認めたくない気持ちもありながら
ひとりになったことで明確に感じてしまった感情だ

面倒くささや困難も込みで家族愛だとも言えるが
(そう言い聞かせ子育てを噛み締めていた部分もある)
とはいえ根本的に子育てに向いている性格ではないのだろうなと
家出をして自分自身を完全に取り戻し
冷静になることで痛感してしまった

しかし同時に、それを認めたうえでも
子を育てる意志は強くあるということにも気づく

子育てには向いてないが
子を愛している
責任を持って育てたいと思っている
相反する要素を抱えているがゆえに苦しいことも多い

「お腹を痛めて生んだ子だから愛情を持って育てられる」
そういうきれいな言葉は
ある一定の世の母をけっこう苦しめるのではと感じる

子育てを楽しめる人もいればそうではない人もいる
それは2パターンではなく
親と子の特性、子の数、親子の相性、家族構成
それはもう千差万別の組み合わせで
色分けすらできないグラデーションなのだ

それなのに
わたしは「いい母親像」という理想を
常に無意識下で持っていたような気がする

けれどこうして
「子育ては任務だ」とはっきり書いてみてスッキリした
母として未熟な自分も成長しながら任務を遂行する
私はこれでいいのだ

理想の母親像は捨てて
唯一無二の私らしい子育てをしよう


捨てまくった30代


30歳後半
わたしは両親と距離を置き、二人姉妹の姉とも離れ
親戚づきあいも全くなく
家族以外に戻れる場所がなくなった

友人もひとり、ふたりと減っていった
ママ友はもはや不要だし
新たに友人が欲しいか?というとそうでもない
友人がいなくてさみしいと思うこともあったが
それを乗り越えてきた結果、孤独と向き合うことを知り
いたずらに寂しがるようなことはなくなった

組織に縛られることや
社会一般的な考え方の中に身を浸すのにも疲れ果て
退職を決めた矢先、夫のちょっとアウトな嘘が発覚
(ここから数日後に家出)

捨てに捨てまくりスッキリ軽くなって
驚くくらい自分の心が楽になっていったけれど
さすがに家族崩壊は厳しいなと思った


信頼関係のある夫婦をやめる


夫婦の信頼が一瞬にして崩れ去った

けれどひとり考えるうちに、またもや気づいてしまったのだ
もともとそんなものはなかったのかもしれない、ということに

いつも素直な気持ちを伝え、話し合い
仮面夫婦になりたくないという気持ちをもって
これまで一緒に暮らしてきたが
もはやそれすらが理想の夫婦像を演じてきた
ということだったのかもしれないとふと思った

一生懸命、信頼を築こうとがんばっていたのかもしれない
そこに信頼があれば、きっとそんなことはしないのだろう
もしかしたらそのがんばりこそが
夫に嘘をつかせた要因のひとつになっていた可能性もある

これまでいろいろなものを手放してきたが
次は、そのがんばりも手放す時なのかもしれない

「夫婦は信頼関係がないと終わり」
「子育てが終わったら夫婦仲良く暮らす」
という、どこかから刷り込まれたような理想像に
私は苦しんでいたのかもしれないと気づいた

「理想の夫婦」をやめよう、そう思った。


新しい家族のかたち


家族としてのありかたを一新することにした

家族とは、個の集まり
そして私たち夫婦の今のフェーズは
「大きいものが協力して、小さいものを育てる」
という同じミッションのもと生活する

決して諦めやネガティブな感情から言っているのではない
余計な感情を取り払った、という感じだろうか

なんとなく心が通じ合っている気がしない‥
信頼関係を取り戻すことができるのか..
子育てが終わって夫婦ふたりになったら..

そんなことを考えるから結婚生活はややこしくなる
それらの心配事は考えるべきその時が来たら考えればいい

後回しは嫌いだが、すぐに答えの出ないことだってある
夫婦関係なんてすぐに答えの出ないことだらけかもしれない
答えなんて死ぬまで出ない可能性だってある

今は心が通じ合うことよりも
協力して子を育てることのほうが優先事項
そりゃあ通じ合っているに越したことはないけれど
お互い、家事育児に仕事をする中で
そこに夫婦の問題を丁寧に紐解く余裕など正直ない

子育てが落ち着けば
夫婦ふたりで楽しむフェーズが来るかもしれないし
個として別の人生を生きていくことになるかもしれない
子育てのパートナーとして新たな信頼が生まれているかもしれないし
現時点では予想すらできない他の要素が加わっている可能性も大いにある

「家族はこういうものである」という一般論はいらない
その時々で立ち止まり
自分たちの状況、状態を点検し都度アップデートする
ベストではなくてもいいから
今の自分たちのベターをオリジナルで決めていけばいい


みんな変人になればいい


家族の理想、一般論に縛られていたことに気づき
「あたりまえ」という考えの怖さを改めて感じた

「あたりまえ」を何も考えず受け入れる生き方をしたくないし
できないとも思って生きてきた自分でさえ
恐ろしいほどの「あたりまえ」に縛られていることに気づいた

遅刻せず出勤することがあたりまえ
こどもは毎日学校に行くのがあたりまえ
食事は1日3食とるのがあたりまえ
お金を稼ぐのがあたりまえ
家族で毎日一緒に暮らすのがあたりまえ

そんなあたりまえたちは一体どこからきたのか

生まれた瞬間から始まった
世間のあたりまえの刷り込みが限界値までくれば
人はおかしくなるのではないだろうか

自分を見失って何者か分からなくなるか
そうでなければこの世界から逃げたくなるのかもしれない

あたりまえを外しまくれば
「あの人頭おかしくなった?」
と思われるかもしれない

しかし、それを気にすることがまた
「みんなと同じがあたりまえ(安心)」という
この国が抱える恐ろしくて強固なラスボス的思考に
負けているということなのかもしれない

でももう、そういうのはいいよね、と思う
理由はシンプルに
「自分の人生は自分のもの」だから

誰もが自分の人生を歩いていい時代だ
みんなが今の一般的な人間の枠から外れて頭がおかしくなれば
みんな変人だからもはや変人という概念は消える

カテゴリ分けなどできなくなるくらい
それぞれが変なやつになって、個を認め合えば
くだらないうわさ話やいじめはなくなる

世間の目を気にせずに自由に生きるということは
それぞれが本気でやりたいことに
脇目も振らず突っ走れるということだ

目標をもってそれに向かって突っ走るとか
必ずしもそういうことではなく
それが本気でやりたいことなら
全力で昼寝するとかだっていいと思う

この世の中をどうにかしたいと思っても
自分の微々たる力で何ができるのか全く分からない

できることと言えば
「積極的に変人になろう!」ということか

わたしもまだまだ人の目に縛られている
ラスボスはマジで手強い
変人になるというのは簡単ではないけれど
ひとつひとつ自分を縛っている鎖を外していこう

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?