コンテンツ消費における『解像度』の格差

※2019年1月に書いたものをnoteに移植したものです。

どんなコンテンツを消費するときでも、
受け手が持っている2つのフィルターがその消費の満足度を規定する。

1つ目が受け手の『解像度フィルター』であり、
2つ目が受け手の『価値観フィルター』である。

『解像度フィルター』とは、
コンテンツを消費するときに受け手がインプットできる粒度の細かさを規定する。

『価値観フィルター』とは、
コンテンツを消費するときの受け手の好みを規定する。

『解像度フィルター』におけるインプット粒度の差が、
コンテンツ消費の満足度に格差を生んでいると最近感じている。

「いやいや(『価値観フィルター』において)好きじゃないコンテンツを、
細かなインプットしたところで満足度はマイナスの振れ幅のまま」という話もある。
確かに最後には『価値観フィルター』において、
「美味かった」「不味かった」「無関心」が決まる。

ただ大事なのは「価値観フィルター」そのものを形作るのに、
「解像度フィルター」が深く関わっているということ。

※より正確に言うなら循環影響を与えている。
好きなものは解像度が高く見れるようになりやすいため。

解像度が高い状況でインプットをしている場合、
付随情報からそのコンテンツの価値が変わるケースもある。
それは美術史であったりそのコンテンツの周辺文脈まで理解した上で、
そのコンテンツを消費している状況がそれに近い。

もちろん解像度が高いインプットをしているからといって、
嫌いなものが好きになることは滅多にない。
ただし理解できるようになる可能性は高い。

人間の脳みそはよくバグを起こすので、
「前後関係」を「因果関係」と捉えてしまうことが多いそうだ。
「Aが発生した後、Bが発生した」という事実があった際、
「AがBを発生させた」という誤謬を犯す。

同じようなもので、
「理解できる」ものを「好き」と捉えがちで、
「理解できないもの」を「嫌い」と捉えがちになる。

なので解像度の違いによって、
価値観フィルターの形成に影響を与えている可能性が高いかもしれない。
※もちろん鶏卵的な議論になってしまうが、
好きだから詳しくなったという話もある

より解像度が高いフィルターを持っている人の方が、
より多くのコンテンツを楽しめるのだ。
高い解像度のフィルターを手にすることが、
コンテンツ消費の満足度を上げるために必要になってくる。

ではどうやってその解像度をあげていくのか。
もちろん膨大な量のコンテンツを消費することによって、
独自でコンテキストを練り上げるという力技もある。

最近感じているのは、
やっぱり多少なりとも制作者側の作業をこなしたことがある、
もしくはなんらかしらの理由で造り手側の思考を持っていることが、
解像度をあげるための大事なファクターになっているのではないかということ。

つまり造り手の立場を経験してみるというのが、
解像度を上げるための最短ルートなのかもしれない。

細かな技法であったりトッププレイヤーの技法を手に入れるのは、
現実的ではないし、そういった技術論をしたいわけではない。

ただ解像度を高めるためには一方通行のインプットをしてるだけだと、
その成長曲線の逓減ラインに早く抵触してしまう。
そこから質的変化をもたらすために、
造り手の立場になってみるということだ。

考えるのもほどほどにして、
見よう見まねで手を動かしてみるというのも、
ひとつ手なのかもしれない。

イラストであれば模写/トレースがそれにあたるかもしれないし、
映画とかゲームとかより大きいプロジェクトであれば、
自分で仮想の企画を立ててみることも近い動きになるかもしれない。

理解するというのはディスプレイや机に向かって、
考え続けることではない。
解像度を上げた方が世の中をより楽しめるし、
そのためには手を動かした方が早そうだ。

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