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幸せを願うことなかれ

「幸せになってね」
もう会うことはないであろう人から最近、言われた言葉だ。おそらく相手は澱みない心で、私の幸せを願ってこの言葉を言ってくれた感じだった。

この言葉をもらって私は、困惑した。第一の感想は、“は?”である。正直なところ、意味がわからない。
だからその人には、「私の幸せは願わなくていいよ」と言ってしまった。本当に願わないでほしい。余計なお世話この上ない。
私がここまで拒否反応を示すのがなぜかというと、幸せってなんじゃらほいという感じだからだ。

まずは「幸せ」の意味を調べてみよう。
三省堂大辞林によると、幸せ=幸福とは「不自由や不満もなく,心が満ち足りていること(さま)」をさすらしい。
言葉のまま「幸せ」を定義づけるのであれば、私はたしかに幸せじゃない。だが、この世界で生きていて不自由や不満がない人間なんて存在するのか?
そんなハッピーハッピーハッピーな人間は、逆に不健全な精神構造をしているのではないかと思ってしまう。だが、それが「幸せ」らしい。OK。

拒否感の理由を更に探ると一番思うのは、人の幸せを勝手に測るんじゃねーよというところだろうか(言葉が乱れてしまって申し訳ない)。
私の性格や持病的に不満を持たないで生きるなんて不可能だ。だが、私は自分のことを不幸だなんて思って生活したことがない。考え方によってはいくらでも、不幸に落とし込む出来事はあったと思う。しかし、私には幸せなこともたくさんある。
病気を理解し、支援してくれる家族。趣味を共有できる友達。私のことを何よりも愛してくれる猫や犬の存在。
これだけで私は十分に幸せなんだと思う。ただ自分が厄介で欲張りな性格だから、欲しいものが幾つもあって満たされない。
この事実を私が言及することはあっても、他人からとやかく言われる筋合いはない。だから困惑するし、腹立たしい。

そんな雰囲気でもなかったから聞かなかったが、「幸せになってね」の中に込められている「幸せ」について考えてしまう。話の前後の文脈から、その人が言った「幸せ」には、ちゃんとした恋人を見つけてねという意味が含まれていた気がする。だとしたら、ちゃんちゃらおかしくて笑ってしまう。
素敵な恋人ができて、幸せ?ハッピーエンド?
そんなものは現実世界にそうそうあることではない。人は自己の問題を他人にすり替えたり、恋人の登場によって何事もうまくいくように錯覚することがあるが、自分の問題は死ぬまで自分にふりかかってくる。生まれた時にかけられた呪いを、生きているうちに解除できるかは自分にかかっている。どれだけ親愛なる家族も恋人も自分の問題に立ち入ることはできない。恋人ができたところで、簡単に幸せになれるはずがないのだ。

これを読んだ人には、こんな些細な言葉だけで気分を害する人間もいることを知ってもらえたと思う。私は「幸せになってね」なんて言葉、人に言うべきじゃないと思うし、私なら言わない。誰かの幸せを願う立場に自分はない。傲慢だと思うから。
誰かの幸せを心から願うのであればそれは違う形で表現すればいい。思うことは自由だが、人に伝えることはよくよく考えるべきだ。「幸せ」なんて、当人が考えるべき問題であって、人から言われることではないのだから。

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