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セクシャリティの理解に疲れた『74日目』

一度吐かせてください


こんにちは、いしいです。

最近、障がい者の方々を支援でなく、ビジネスでちゃんと活躍させたいと思う人と会ったりしていると、いわゆるマイノリティについて考えることが増えています。

セクシャリティだったり、障がい者であったり。
#そもそも障がい者っていう言い方は好きではないですが
#マイノリティも

 こういったことを発言することこそ、スタンスを分けているとも感じています。
なので、発言すること自体あまり好きではないですが、言いたい気持ちが強まってきたので、一度言語にして吐いていきたいと思います。

LGBTQIAPKまでいくともう長い!


セクシャリティについて調べてみると、長いのでは「LGBTQIAPK」まで書かれていました!

また、最近はLGBTでは、「マジョリティとマイノリティ」といった分断をつくっていると考えられるようなり、

性のあり方を表現する際、すべてのセクシャリティを含む概念としてSOGIという言葉が使われているそうです!


名前があると救われる一方で、


名前や説明があると理解が増え、その名前に救われる人がいると思っています!

けれど、おそらくマジョリティであるはその理解のために疲弊しているように感じています。

なぜか?

なんとなくだけれど、すべてを理解していないと「差別的である」と言われるような気がして、小さなストレスが溜まっているように感じています。

とはいえ、もちろんセクシャリティと人格は異なるから、セクシャリティでうがった評価をつけるつもりはありません。

けれど、やっぱりセクシャリティに限らず、普段の生活でも気づかう場所が増えると、やっぱり精神的に疲労は蓄積するように感じます。

誤解を生みそうなので補足すると、毎日初対面の人と会っていたら、その人の地雷を踏まないように気を付ける。
みたいな気遣いからくる精神的疲労です。

名前があると救われる理由


また、名前があると救われる人がいる理由もなんとなくですがわかります。

セクシャリティで悩んだことはありませんが、今私がやろうとしていることを上手くカテゴリーに収めることができません。

だから誤解もされるし、何がしたいの?と言われることもあります。
そして、したいことの一つがたまたま短い言葉で表せると、すごく心が楽になるし、その言葉を使えるから説明も楽になったことがありました!

やはり、セクシャリティでは少し違いますが、名前があると助かるのは一緒です。

一番に思うのは、名前が存在するということは、

少なくとも1人は自分と似た考えの人がいて、多少は世界の孤独が解消されるのだろう

と思っています。
人に差はあれど、1人じゃないと知ることができます。

だから、名前があると救われると思っています。

考え方自体も変えていかないといけないのか?


名前はやっぱり、あると救われる人がいると思うので、たくさんあるべきだと考えています。

ただ、それも大事だし、考え方も大事だと思っています。

そんな人がいても何ら不思議ではないと。

※ここからはあくまで私見です。
 
生物多様性のように、
あんな動物もいて、こんな動物もいる。だからそんな動物がいても何ら不思議ではない。そして、まだまだ知らない動物がこの世界にはあふれている。

セクシャリティも同じで、あんな価値観の人がいて、こんな価値観の人もいる、だからそんな価値観の人がいても不思議ではない。そして、まだまだ知らない価値観がこの世界にはあふれている。

と考えていく必要があるのかなと考えています。
今1番しっくりくる表現はこれかなと思っています。

完全に分けるのは難しい


そして、その人の考えとセクシャリティはイコールではないから、分離して考える必要があると考えています。

とはいえ、
政教分離のように社会のシステムとセクシャリティを完全に分けることは難しいと思っています。

極端ですが、社会システムとセクシャリティを分けてしまえば、男女でトイレを分けることは必要ないとなってしまうように。

批判はあっていい


だから、まずは考えること自体が重要だと考えています。
考えるから、セクシャリティへの理解もできるとも思っています。

そのうえで、批判も重要だと考えています。

どんな人間も正解を出し続けることは不可能だと考えています。

だから、批判は必要だと考えています。

とはいえ批判も無知で、頭ごなしな批判ではなく、理にかなった批判に限ります。

多様を「前提」にしていく


ここまで書いてきて、少しだけ自分の思っていることも書かせてください。

※メモをそのまま載せます。
 ここは、温度も少し届けたいと思うからです。

色んな呼び方があってもいいと思うし、その呼び方があることはどんどん発信していく必要があると思う!
その名前があって救われる人があると思うからだ。
そして、差別はよくないし、セクシャリティで人格を否定することは許されるべきではないと思う。
けれど、他にもやることはいっぱいあるのに、セクシャリティすべてを網羅しなくてはいけないとなっている風潮は少し過剰なのではと考えている!

また、これからもどんどん名前は付けていってかまわない。
私が考えるにもう一つそれと同じくらいに重要なのは、人格とセクシャリティを分けて評価する思考を育むことや、多様を認めるために活動するのではなく、多様を「前提」にしていくことなのかと思っています!

とはいえ、
「あそこの所属だから、あんまり良いように思ってない」
のように考えている自分もいるから不完全ではないと思っています。

そして、理解は必要です。しかし、過剰ではないのか?とも思っています。

おわりに


まだ全部を書けた気もしないし、どこかへの配慮が欠けていたり、誤解を生むような表現があると思います。

けれど、今の風潮に疲れている自分がいる事実もあります。過剰な配慮というべきか。

まだ、全部の思いを吐けた気もしない。

こんなnoteですが、

本日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

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