ジャック・ラカン『精神病のいかなる可能な治療にも先立つ問い(D'une question préliminaire a tout traitement possible de la psychose )』(エクリ所収)―私訳―(3/n)

以下はÉcritsに収められている論文『精神病のいかなる可能な治療にも先立つ問い(D'une question préliminaire a tout traitement possible de la psychose )』の第一部に対応するAprès Freud.の部分の翻訳です。残りの部分も順次翻訳していこうと思います。気長にお待ちください。
訳者はフランス語初学者であり、誤訳等々が多く散見されると思われるがコメントやTwitter(@F1ydayChinat0wn)上で指摘・修正していただければありがたいです。

原文は1966年にSeuil社から出版されたÉcritsのp.541~p.547に基づきます。したがって、1970年と1971年に刊行されたÉcrits IとÉcrits IIについては参照していないため、注などが不完全であるかもしれません。
また翻訳に際して以下の三つの翻訳を参照しました

  1. B.Finkの英訳

  2. ドイツ語訳(旧訳)1986年にQuadriga社から出版されたSchriften II

  3. 日本語訳(佐々木訳)

1の英訳についてはwebサイト(users.clas.ufl.edu/burt/deconstructionandnewmediatheory/Lacanecrits.pdf)で閲覧可能です。

2のドイツ語訳に関しては ‎ Turia + Kant 社?から出版されている新訳のSchriften IとSchriften IIがありますが、入手できなかったため旧訳を参照しました。

基本的な文構造はFinkの英訳に従い、適宜独訳を参考にしました。結果として佐々木訳とはやや異なる箇所が多いです。

また参考文献として以下を参照しました。

またシュレーバー回想録の引用は上記の日本語訳に従っています。(一部エクリのフランス語訳との兼ね合いで変更した箇所はあります。)
二つ目のシュレーバー回想録の英訳版は以下のページで閲覧できます。ただしネットで閲覧できるものは1988年の改版(?)と思われるのでラカンが本論文を執筆した時のバージョンではありません。
Memoirs of my nervous illness : Schreber, Daniel Paul, 1842-1911 : Free Download, Borrow, and Streaming : Internet Archive

注意事項

・ある程度読みやすさを重視しているので必ずしも原文の文構造に忠実ではないし、また一部の語は訳し落としたり、意訳したり、補ったりしてあります。
・(?)がついているのは訳が本当に怪しいと私が思っている箇所を指します。
・訳者が勝手に補った箇所・または短めの訳者コメントは[]をつけています。関係代名詞を切って訳した部分などは[]を明示していない場合があります
・訳が微妙な場合は元の語を(…)で示していますが、ラカン本人が記した(…)もそのまま(…)としています。混同は多分しないと思いますが一応注意してください。加えて、本来外国語は斜体にするのがマナーですがnoteだと斜体にする方法がわからないので直接書きます
・原注、訳注、長い訳者コメントは最後にまとめておきました。訳注は主に引用されている文献の被引用部を中心にした抜粋が多いです。
・原注の番号は降りなおしてあります
・段落の改行は原著に従います
・noteでは上付き文字が対応していないため上付き文字を表すために「^」を用います。つまりa^bはaの上付き文字としてbが来るということ、平たく言えばaのb乗という意味です。なお、ラカンの場合は上付き文字にはべき乗のニュアンスは恐らく込められていないものと思います。訳者は単なる添え字だと思って読んでいます。

以下、本文


1.人々が体験するたくさんの諸経験において、全くの物の次元(celle d'Autre chose)として―こうした諸経験について考えないことなしに、むしろこうした諸経験について考えることによって、しかし人々が考えているということを考えることなしに、そしてテレマコス(訳注1)が支出について考えるように―明らかになるある次元が、思念の観念(l'idée de pensée)によって考えているということを保証された人々によって適切に述べられるまで、決して考えられたことがなかったというのは十分に驚くべきことである。

欲望、倦怠、幽閉、反抗、祈願、徹夜(私はここで人々に立ち止まってもらいたい。というのも、フロイトが彼のシュレーバー論の最中に、ニーチェのツァラトゥストラの一節の想起によってこうしたものに明示的に言及したからだ。(原注1))、パニック、結局[これらのものは]ここで我々にこの別の次元を証明するためのものであり、加えて我々の注意をそこに[=この別の次元]喚起するためのものである。私は[先に述べたことを、つまり別の次元のことを、]笑いを-欠いた-思念(le pense-sans-rire)により元に戻すことができるような単純な心の状態に関する限りで述べているのではない。むしろ、より著しくは[=より重要なことには]集団的諸組織の恒久的な諸原則に関する限りで述べているのである。[そして、]この諸原則が無ければ、人間の生が長きにわたって自身を維持することはできないと思われる。

考えることについて考えることは最も考え得ることであり、自分自身をこののもの(Autre-chose)であると考えることである。この考えることについて考えることが生じ得るこの対立に耐えることが常にできなかったということは、疑いなく、全く論外な事ではない。

ひとたび、このの場所[=次元?]と場所―この場所は皆に対して存在し、また各人において閉じている場所であり[多分要するに無意識のこと]、この場所においてフロイトは人々がそれ[=この場所]について考えることなしに、つまり誰もが「他者よりもより良くそれ[=この場所]について考える」と考えることなしに、エス(ça)は考えるということを発見した―の概念的な結合が形成されると、この反発はしかしながら全く明確になるのである。この概念的な結合は誰も未だ考えたことがない結合である。むしろエス(ça)はよく[上手に?]考えない。しかし、エス(ça)は堅固に考えるのである。:というのも、まさにこうした言葉によってフロイトは我々に無意識を知らせたからである。:諸思念は完璧に分節化されているのである。諸思念の法は我々の我々の日常的な―高貴なものについての、または俗悪なものについての―諸思念の法と全く同じものではない。

このの場所を憧憬の想像的形態、失われたパラダイスや未来のパラダイスの想像的形態に還元する方法は最早ないのである。このの場所に見出されるものは、子供の愛のパラダイスである。このパラダイスにおいては― baudelaire de Dieu ![意味わからん、直訳すると「神のボードレール!」]―初々しい子供の愛の楽園が生じるのである[=淫らなことが行われるのである](訳注2)。

さらに加えて、もし我々に疑念が残っていたとしても、フロイトは無意識の場所をフェヒナー[のテキスト]においてフロイトの興味を捉えた語によって名づけたのである。それは別の舞台(ein anderer Schauplatz、 une autre scène)[という語]である(訳注3)。(フェヒナーは彼の実験主義(expérimentalisme)において全くリアリストではなかった。我々の教科書が我々に示唆するように。)フロイトはこの語[=別の舞台という語]を彼の最初期の諸著作において二十回にわたって再び取り上げたのである。

このように冷や水を振りかけることによって、我々は知力の活性化を期待する。我々はここから、この者(Autre)と主体の関係の科学的定式化へと移ろう。

2.«諸観念をはっきりさせるために»、そしてここでさまよえる魂たちのために、我々は先に述べた関係をシェーマLに当てはめる。[このシェーマLは]過去に呈示したものであり、ここで以下のように単純化される。


シェーマL(Écrits, p.548)

シェーマLは(神経症的あるいは精神病的)主体Sの条件は大他者Aのうちで展開されるものに依存するということを意味している。大他者Aにおいて展開されるものはディスクール(無意識は大他者のディスクールである)として分節化される。フロイトは何よりもこのディスクールの諸断片についての統辞論を定義しようと努めた。このディスクールの諸断片は夢、言い間違い、機知の表現といった特権的な諸瞬間において、我々にこのディスクールを予告するのである[=~といった特権的な諸瞬間において、このディスクールは我々に届くのである]。

もし主体が[このディスクールに]関与していないなら、主体はどのようにこのディスクールに関係するのだろうか?実際のところ、主体はシェーマの四つの角にいる限りにおいて関与しているのである(訳注4)。つまりSは主体の滑稽であり言葉で表せないような、愚かな実存(exsistence)である。aは主体の諸対象である。a’は主体の自我である。即ち主体の自我は主体の諸対象[a]に映し出された主体の形態である。そして[大他者]Aは、そこから主体の実存(existence)についての問いが主体に対して提起され得る場所である。

というのも以下のことは精神分析にとって経験的真理であるからだ。即ち、主体に対して実存についての問いが提起されるが、この問いは、この問いによって自我の水準に生じる不安という形態をしているわけではないということである。またこの不安はまさにこの問いの付随物の一要素に過ぎないのである。この問いは分節化された問いとして[提起されるのである]。:[具体的には、]«そこで私は何であるのか?»、主体の性別と存在における[=存在の内へと投げ込まれている]主体の偶然性に関する[問いとして提起されるのである]。つまり、主体は一方では男性か女性であり、他方では[=そうでなければ]主体は存在することができないであろう。この二つ[=男性か女性かである、さもなくば存在しえないということ]はこの問いの謎に結集し、主体はこの謎を諸々の象徴の内で生殖と死に結びつける。主体の実存についての問いが主体に押し寄せ、主体を支え、主体を襲い、さらに全方位から主体を引き裂くということが分析家に対して明らかになるのである。こうしたことは[=主体の実存についての問いが主体に押し寄せ、主体を支え、主体を襲い、さらに全方位から主体を引き裂くということ]は分析家が緊張、迷い、空想によって出会うものである。さらに、特異的なディスクールの構成要素という資格へと、この問いは大他者の内で自らを分節化するのである。というのも、これらの諸現象はこのディスクールの形象のうちで整理されるからである。そのディスクールは諸現象は諸症状の不動性を有している。この諸症状は読めるものであり(lisible)、また解読された時に解消されるものである。

3.それゆえ、この問いは無意識において言い表せぬものとして現れるわけではなく、無意識においてこの問いが問題になっているのだということを強調せねばならない。つまり、あらゆる分析に先立って、無意識におけるこの問いは離散的な諸構成要素へと分節化されるのである。これは重要である。というのも、言語学的分析は我々にこうした諸構成要素をシニフィアンとして孤立させることを命じるからであり、最も本当らしくないと同時に最も本当らしい地点において、こうした諸構成要素は純粋な状態において機能していることが把握されるからである。

―最も本当らしくない、というのもそれらの[=シニフィアンの]鎖は他性(altérité)のうちで主体に対して存続するからだ。この他性は、砂漠の孤独のうちにある、未だに解読できないヒエログリフたちの鎖と同様に根源的なものである。

―最も本当らしい、というのもそこでのみ、それら[=シニフィアン]の構造をシニフィエに押し付けることによってシニフィエのうちにシニフィカシオンを導入するというそれらの[=シニフィアンの]機能が曖昧さなく現れることができるからである。

なるほどシニフィアンによって現実界のうちへと開かれた溝は、この溝を広げるためのギャップを探し求めるだろう。現実界はこのギャップ( béance)をシニフィアンに対して存在するものとして提供するのであるが、シニフィアンがここで[=このギャップにおいて?]シニフィエの法に従わないか否かを把握することに関して、曖昧さが存続する。

しかし問題となっている水準においては同様ではないのである。[問題となっているのは]世界における主体の場所についての問題ではなく、[問題となっているのは]主体としての主体の実存である。いま話題になっているこの問題は、主体から出発して、諸対象との主体の間-世界的関係(relation intra-mondaine aux objets)へと広がってゆき、そしてこの関係が自身の秩序から越えても、同様に問題となり得る限りにおいて、世界の実存へと広がってゆくのである。

4.無意識的な大他者の経験―そこにおいてはフロイトが我々を導いているのだが―のうちに、その輪郭をイメージの原態的増殖(protomorphes foisonnements)や植物性の膨張、生の動悸から拡散する動物的外縁の中に見出していない問いを確認することが最も重要である。

フロイトの方針とユング派の方針の間には大きな違いがある。ユング派は次のような諸形態にしがみついたのである。[それは]リビードの変化(Wandlungen der libido)[である。]こうした諸形態は占術において最重要な位置へと抜擢され得る。というのもそのような諸形態は適切な技法([つまり]想像的創造の促進:夢想、デッサン等)によって、大体の検討がつくような地点において、作られるからである。この地点はaとa´の間に張られた我々のシェーマに基づいて、つまりナルシックな幻影のベールの中で、理解することができる。[このシェーマは]幻影の魅了と捕獲の効果によってこのベールに映し出されるものを支えるのに著しく適している。

もしフロイトがこの占術を拒否したのなら、それはこの占術が象徴的分節化の主導的機能をなおざりにした地点である。この象徴的分節化は、自身の内的法と質料―この質料は自身にとって本質的である貧しさに従っている[=特徴づけられている]のだが、―に基づいて作用する。

先と同様に、正統派を自称する共同体の中で、全く分節化のこの様式がフロイトの御言葉(verbe)の徳によって保たれている限りにおいて、―同様にこの様式がフロイトの御言葉の徳によって解体されたとしても―二つの学派[=フロイト派とユング派]の間にはとても根深い差異があるのである。そのうえ現状においても(?)(encore qu'au point où les choses en sont venues)、どちらの学派も理由を表明できる状態にないであろう。そのことによって、それら二学派の実践の水準は、アルプス山脈と大西洋の空想の仕方の違いへと還元されることがまもなく明らかになるだろう。

シャルコーが言った言葉で、フロイトが大変気に入った公式について再び取り上げよう:大他者がAという自身の場所に«存在することを、このことは妨げない»。(« ceci n'empêche pas d'exister » l'Autre à sa place A. )

というのも、この大他者がその位置から取り除かれると、まさにひとはナルシスの位置のうちに自身を全く維持することはできないからである。アニマ(anima)は、例えるなら弾性的な感じで[=ゴムのように]、アニムス(animus)へと跳ね返る。そしてアニムスは動物(animal)へと跳ね返る。この動物はSとaの間に、自身の環界(Umwelt)と«外的な諸関係»を我々の場合よりも著しく緊密に維持する。そのうえ、この動物の大他者との関係は無であると言うことはできないのである。ただ言えるのは、この関係が我々に対して現れるのは散発的な神経症者についての粗描において他はないということである。

[アニマもアニムスもユング心理学の用語。アニマルを出してラカンが何を言わんとしているのかはよくわからない。]

5.主体の実存において、主体について問題となっているシェーマLは組み合わせの構造を持っている。この構造をこのシェーマLの空間的な側面と取り違えてはならない。それゆえ、大他者の中で、とりわけ4つの要素からなるシェーマLのトポロジーの中で、自ら分節化されるべきであるのは、まさしくシニフィアン自身なのである。

この構造を支持するために、我々はシェーマLにおいて三つのシニフィアンを見出す。このシニフィアンにおいて、エディプスコンプレクスのうちで大他者は自身が識別されるのである[=エディプスコンプレクスにおいてはこの三つのシニフィアンのにおいて大他者が見出されるってこと?]。それら三つのシニフィアン[多分a,a´,A]は、生殖に関係するシニフィアンと愛に関係するシニフィアンの下で、性的再生産[=生殖]のシニフィカシオンを十分に象徴化している。

主体の現実うちにおける主体によって第四の項[恐らくSのこと(訳注5)]は与えられる。[この第四の項は]システムのうちにおいて排除されたものとして与えられ、ダミー(mort)という形態の下でのみ(訳注6)、シニフィアンの戯れ(jeu)のうちへと入るのである。しかしこのシニフィアンの戯れが第四の項をして意味せしめることに応じて、[この第四の項が]本当の主体になるのである。

このシニフィアンの戯れは実際には不活性なものではない。というのも、現実の小文字の他者たちの祖先の歴史全体を通じて、特有の各々の部分(partie)のうちでこの戯れは活発であるからだ。この現実の小文字の他者たちの祖先の歴史全体は、意味している(signifiants, 英:signifying)大他者の命名によって主体の同時代性へと巻き込まれている。そのうえ、この戯れが慣例に従って、各々の部分(partie)を越えて確立される限りにおいて、この戯れは既に主体のうちに三つの審級を確立している。:(理想)自我、現実、超自我である。それら三つの審級の確定はフロイトの第二局所論の要点となるだろう。

そのうえ、主体はダミー(mort)(訳注7)としての戯れの内へと入る。しかし主体が生者としてこの戯れを行うのである。この主体の生において、主体はトランプのスーツをプレイせねばならない[=主体はトランプ遊びをせねばならない]。この戯れにおいて、主体は好機をみてトランプのスーツ[=♣,♥,♠,♦]を告げるのである。主体はこの戯れを想像的な像のセットを用いることで行うのである。これらの想像的な像は心霊的(animique,seelischer)な関係の数えきれない形態の中から選ばれたものである。それらの想像的な像の選択は何かしらの恣意性を伴うのである。というのも、象徴的な3要素を相同的に(homologiquement)覆うためには、この選択は数の上では減らされねばならないからだ。

[この箇所は恐らくコントラクトブリッジの話を念頭に置いているとおもわれる。コントラクトブリッジについてはフィンクの「エクリを読む―文字に沿って―」のp.18あたりを参照のこと]

これを為すために、(ナルシックな関係の)鏡像的イメージの極的関係は、統合するものとして、いわゆる寸断された身体(corps morcelé)の想像的諸要素の集合と関係する。この極的関係はあるペアを産出する。そのペアは発達の自然的都合や、母-子(Mère-Enfant)の象徴的関係の代理物の役目を果たす構造の自然的都合によってのみ準備されるものではない。鏡像段階のこの想像的ペアは反-自然的[性質を]示すので、この想像的ペアは人間の誕生に固有な未熟性に結びつけられねばならないのだが、この想像的ペアは、想像的三角形に対して基礎を与えるのに適していることが明らかになるのである。(シェーマRをみよ)

実際、ギャップによって、想像界におけるこの未熟性は明らかになるのである。そして鏡像段階の諸効果が増大する地点において、人間的動物( l'animal humain)は自身を死すべき存在だと想像できるのである。[これは、]ひとが象徴界との自身の共生関係なしに自身を死すべき存在だと想像できるということを意味するのではない。むしろひとを自身に固有のイメージから疎外させるこのギャップなしには、象徴界とのこの共生関係は生じ得なかっただろうということである。この象徴界との共生関係において、人は自身を死に従属したものとして構成するのである。

6.想像的な三要素の第三の項―想像的な三要素のなかで、そこにおいて自身の活き活きとした存在に反して主体が[死すべき存在として?]自身を見出す項―はファリックなイメージに他ならない。このファリックなイメージを、この機能[=主体が自身を見出すこと?]のうちで暴露することはフロイトの発見で少しもスキャンダラスなものなものではないのである。

早速、この二重の三要素[=象徴的三要素、想像的三要素]概念の視覚化として以下に書き込まれるのは、我々が以後シェーマRと呼ぶものである。そしてこのシェーマRは認識されるもの(perceptum)を条件づける線たち[=perceptumを条件づけるもの]を表現している。[この認識されるもの(perceptum)を]言い換えると、それらの線たちが依存しているに過ぎないものとしての対象というよりはむしろ、それらの線が現実(réalité)の領野を限定する限りにおける対象である。

象徴的三角形の頂点は次のようにして考えられるのである:Iを自我理想(l'idéal du moi)として、Mを原初的な(primordial)な対象のシニフィアンとして、そしてPをA(大他者)の位置における父の名(Nom-du-Père)の位置として、である。どのようにして、ファルスのシニフィアンの下での主体Sのシニフィカシオンのホモロジカル[=相同的な]なピン止めが、M,i,m,Iの四辺形に範囲を限定された現実の領野の支持のうえに留まることができるのか[=影響を与えることができるのか]を把握することが可能である。この四辺形の[MやIとは]別の頂点たち、iとmはナルシックな関係の二つの想像的項を表している。つまり、自我(le moi )と鏡像イメージ(l'image spéculaire)である。


シェーマR(Écrits, p.553)

こうして、iからMの間に、つまりaのうちに、諸セグメントSi,Sa^1 ,Sa^2
,Sa^n,SMの末端[=始めの点と終わりの点]を位置づけることができる。この諸セグメントに性的侵害(agression érotique )の関係における想像的他者の諸形象が据えられる。この性的侵害の関係において、想像的他者の諸形象は実現されるのである。――同様にmとIの間に、つまりa´のうちに、諸セグメントSm,Sa´^1 ,Sa´^2,Sa´^n,SIの末端[を位置づけることができる。]この諸セグメントにおいて、自我は自身を見出すのである。自我の鏡像的原像(Urbild spéculaire)から出発して、自我理想の父性的な同一化に至るのである。(原注2)

1956年から1957年にかけての我々のセミネール[対象関係論]に参加した方々は、ここで呈示され、我々が作り出した想像的三要素(訳注10)をどのように使うかを知っているだろう。望まれた物としての子はこの想像的三要素から、対象関係(原注3)の概念を取り戻すために、実際にIの頂点を形成する。ここ最近の人々が対象関係の項目でその有効性を言い張っているような、あれこれの愚かな発言によって、[対象関係は]いささか信頼を失っている。[幼児が頂点Iを形成するのは、また、]正当に対象関係に結びつくような経験の資本を取り戻すためでもある。

このシェーマは実際、ある諸関係をはっきりと示すことを可能にする。そうした諸関係とは前エディプス的段階に関係するものではない。この前エディプス的段階はもちろん存在しないものではなく、分析的に考えることができないものである[=分析では考えられないものである]。(ふらついてはいるが、しかしながらメラニー・クライン氏によって導かれている仕事がこのこと[=前エディプス的段階が分析では考えることができないこと]を十分に明確にしているように。)そうではなくて、このシェーマが示す諸関係は、エディプスの遡及効果の内で整理されるかぎりでの前性器的段階に関係するのである。

倒錯の問題全体は、子の母との関係において「如何にして子を為すか?」という問題にその本質がある。分析において子の母への関係は、子が[母へ]生命を依存することによって構成されるのではなく、子が母の愛に依存することによって構成される。つまり母の欲望への[子の]欲望によって[子の母への関係が分析において構築されるのである。][倒錯の問題全体は]この欲望[=母の欲望]の想像的対象と一体化するのである。それは、母自身が想像的対象をファルスの内へと象徴化する限りにおいて、である。

この弁証法によって産み出されるファルス中心主義は我々がここで取り上げねばならないことの全てである。ファルス中心主義はもちろん、シニフィアンの人間の精神活動(psychisme)への闖入によって全面的に条件付けられている。そして、ファルス中心主義は厳密に前もって決められたいかなる調和―前述の精神活動とそれ[=精神活動?]を表現する自然との調和―からも引き出すことが不可能である。

この想像的効果は、本能に特有の規範性という偏見に基づく不調和としてまさに感じられるのである。然しながらこの想像的効果は長い論争を引き起こした。この論争は今日では落ち着いているが、何ら損害を受けていない。[この論争は]ファリックな段階[=ファルス期?]の一次的あるいは二次的な性質に関するものである。(訳注11)もしその問いが極度に重要でなかったならば、アーネスト・ジョーンズ博士によって、自身がフロイト―[ジョーンズ博士とは]全ての点で反対の立場―と全面的に一致していることの断言を支えるためにこの問いに押し付けられたもっともらしい大手柄によって、この論争は我々の興味に値しただろう。つまり、ジョーンズ氏がこしらえた立場は、間違いなく微妙な含みを伴って、英国のフェミニストたちの第一人者[という立場である。]ジョーンズ氏が拵えた立場では«各々のもの(chacun son)»という原則に夢中である(訳注12)。[その原則とは]男の子たちにはファルスがあって、女の子たちにはマ...(訳注13)

7.ファルスのこの想像的機能をフロイトはそれゆえ象徴的プロセスの中心軸として暴きだしたのである。象徴的プロセスは両性において、去勢コンプレクスによる性についての問いの提起を完成させる。

分析的合唱の内で、今やこのファルスの機能(それは部分対象の役割へと縮減されている)が隠されているのは、まさに深いまやかしの結果である。このまやかしにおいては文化が象徴を維持する。このことは[=ファルスの機能が隠されているということ]、異教それ自身がまさに自身の最も秘められた神秘の頂点においてそれ[=ファルス?]を提示したという意味において理解されるのである。

実際、主観的[or主語の?]エコノミーにおいて―我々が見るように、このエコノミーは無意識によって制御されているのだが―シニフィカシオンはまさに我々が隠喩、より正確には父性隠喩と呼ぶものによってのみ喚起されるのである。

そして我々はマカルピン夫人とこそ対話することに決めたので、このことは我々をマカルピン夫人の«太陽・巨石崇拝»に言及するという欲求に連れ戻すのである。この欲求によってマカルピン夫人は、父( père)の生殖の機能は回避されているであろうような、前エディプス的文化においてコード化された生殖を理解したと主張する。

この観点[=«太陽・巨石信仰»からシュレーバーを理解するというアプローチ]から差し出されるであろう全てのものは、それがいかなる形態の下にあろうとも、シニフィアンの機能こそをよりよく目立たせるのである。シニフィアンの機能は父性を条件づけるのである。

というのも分析家たちがドクトリンについて疑問を依然として抱いていた時期の別の議論において、アーネスト・ジョーンズ博士と彼の以前の指摘よりかはより妥当な指摘は、劣らず不適切な論拠をもたらしたからである。

実際、オーストラリアの部族における信仰の状態に関しては、ジョーンズ博士は人々のどんな共同体も、どんな女性も性交することなしには子供を産まないという経験的事実―謎めいた例外を別として―を誤認し得るということ、さらにはこの先行の件が必要とする期間[=性交から出産までにかかる期間]を知らないことをさえあり得るということを認めなかった。さて、この信頼[=上述の、どんな共同体においても人間は生殖のメカニズムを正しく把握できるというジョーンズ博士の人間に対する信頼?]は我々に全く正当に人間の現実を観察する能力に見合っているように見えるのだが、この信頼は大変厳密に[今話題になっている]問題において重要性を持っている。

というのも、もし象徴的コンテクストがこの信頼を必要とするとしても、精霊が宿っているとみなされるしかじかの泉における、あるいはモノリス[=一枚岩の建造物]の内での、女性による精霊(esprit)との出会いに父性は帰されるだろうからである。

これは、生殖が父(père)に帰されるということは純粋なシニフィアンの効果、認識の効果であり、現実的父(père)の効果ではないということを明らかにするものである。しかし、[生殖が父に帰されるということは]宗教が我々に父(père)の名として引き合いに出すことを教えたところのものの効果である。

もちろんシニフィアンが父(père)である必要はないし、同様にシニフィアンが死である必要もない。(?)しかしシニフィアンが無ければ、人は存在のこれらの様態の一方[=父?]も他方[=死?]も決して知ることがないだろう。

私はここで、フロイトのテキストにおいて、自身の指導員たち(moniteurs)が与えた知識(lumières)の補足物を探そうと決心させることができるものが何もない人たちに向けて、神経症的主体(特に強迫[神経症的主体])が[この二つのシニフィアン的関係の]類似性をそれら[=二つのシニフィアン的関係?]のテーマの結合によって明示する度に、どのような強調とともにフロイトのテキストにおいて、我々が言及したばかりの二つのシニフィアン的関係の類似性が力説されているのかを思い起こさせる。

どのようにしてフロイトが二つのシニフィアン的関係の類似性を認識しなかったのかということは、―フロイトの反省の必要はフロイトを(Loi)の作者としての(Père)のシニフィアンの出現を死、それどころか(Père)の殺害と関係づけるに至らせたのにも関わらず、である。―それゆえ、もし主体が(Loi)の下での生に自身を縛り付けるという負債を結実させる瞬間がこの殺害であるならば、この法を通達する(signifie)ものとしての象徴的(Père)はまさしく死せる(Père)であるということを示しているのである。

原注

1:日の出前に(Vor Sonnenafugang):ツァラトゥストラはかく語りき,第三部,それは第三部の四番目の詩である。[cf フロイト全集11p.155、だがラカンの主張との関係が掴めない。]

2:このシェーマRのうちに対象aの位置を割り出すということは、対象aが現実(対象aをさえぎる=斜線を引く領野)の領野の上に持ち込むものを明らかにするために有益なことである。 

我々が置いたいかなる強調も、以下のこと―[それは、]この領野[=現実の領野]はまさに空想のスクリーンをふさぐ時のみ機能すると述べられた―を発展させて以来、未だなおより多くの注意を[払われることを]必要としている。

もしかすると、以下のことを認めるのが得策かもしれない。即ち、当時は謎めいたものであったが、しかしながら続きを知っている人々にとっては、完全に理解可能である。ひとがそれ[=続き]をよりどころにしていると言い張る時と同様に、である。シェーマRがさらけ出しているもの、それは射影的平面(Fink:クロスキャプ)(訳注8)なのである。

とりわけ、我々が偶然によって(また戯れによってでも)文字を選んだわけではない点たちの文字はm M, i, Iに対応している。そしてこれらの点たちは、このシェーマにおいて唯一の有効な裂け目(coupure)(つまりベクトルmiとMI[によって囲まれた]裂け目である。)を縁どっている。場[=領野]の中で(dans le champ)、この裂け目はメビウスの帯を切り離しているということを、これらの点を十分に告げている。

後は推して知るべしである。というのも、そうである以上、この領野はまさに空想を繋ぎ留める場所となるからである。この欠如はこの空想の構造をすっかり与えるのである

我々は即ちこの裂け目のみが表面全体の構造を明らかにするのであると主張したい。というのも、以下のこれら異質な二つの要素を、そこ[=裂け目]から分離することができるのだから。([これれら二要素は]我々の空想のアルゴリズム($♢a)の中に書き込まれる。)[それら二要素とは]$とaである。この帯[=シェーマRの台形部m,I,M,i のこと]により斜線を引かれているSは、この帯が実際に表れる地点において用意されている。[この帯が実際に表れる地点とは]つまり、現実の領野、つまりRの領野をこの帯が覆っているということである。またaはIとSの領野に対応する。

さて、$―欲望により斜線を引かれているS―は空想のうちの代理表象の代理物として、即ち有機的に抑圧された主体として、この$はここで現実の領野を支えるのである。そして、この現実の領野はまさに対象aの抽出によって保たれているのである。それにも関わらず、この対象aは現実の領野にその枠組みを与えるのである。

唯一の領野I(訳注9)が領野Rへ闖入することをベクトル化する段階から、我々のテクストにおいてまさにナルシシズムの効果として確かに分節化されるものを見れば、我々が何らかの裏口を通って、「これらの諸効果(我々が読んできたような «同一化のシステム≫)が何らかの仕方で理論的に現実を根拠づけることができる」[という考えに]戻ってこようと望むことはそれゆえ全くのあり得ないことである。

我々のトポロジカルな説明(この説明はまさに分節化されるべきファンタズムの構造によって正当化される)を理解した者は確かに次のことを知るはずである。それは即ち、メビウスの帯においては、このメビウスの帯の構造のうちで保たれねばならぬような測定可能(mesurable)なものは何も存在しないということであり、またこのメビウスの帯は―ここで問題になっている現実界のように―裂け目それ自体へと還元されるということである。以上の注記は我々のトポロジカルな練り上げの現在の場面を示すものである。(1966年7月)

3:[対象関係は]このセミネールのタイトルである。

訳注

1:テレマコスの件りは邦訳の注によれば『テレマックの冒険』という小説を参照しているらしい(佐々木訳より)

2:ボードレールの詩「 Moesta et errabunda」(憂鬱と放浪)の当てこすり。該当箇所を引用すると

Mais le vert paradis des amours enfantines,
Les courses, les chansons, les baisers, les bouquets,
Les violons vibrant derrière les collines,
Avec les brocs de vin, le soir, dans les bosquets,
— Mais le vert paradis des amours enfantines,

L'innocent paradis, plein de plaisirs furtifs,
Est-il déjà plus loin que l'Inde et que la Chine?
Peut-on le rappeler avec des cris plaintifs,
Et l'animer encor d'une voix argentine,
L'innocent paradis plein de plaisirs furtifs?

ではせめて、無邪気な愛の初々しい楽園は?
駆け競べ、謡くらべ、接吻や、花束や、
丘越えてわななきの聞こえ来るヴァイオリン、
暮れ方の森かげに傾ける酒の壺、
―ではせめて、無邪気な愛の初々しい楽園は?

ひそやかな悦びに満ちみちた無邪気な楽園は、
それも今では印度や志那よりも遠いだろうか?
哀訴の叫でもう一度それを呼び戻し、
澄みとおる銀の声でもう一度甦らせ得ないだろうか
ひそやかな悦びに満ちみちた無邪気な楽園は!
※仮名遣い、漢字を現代のものに変更した

惡の華 新潮文庫 ホ―2―3 堀口大學訳

3:

むしろ、彼[=フェヒナー]が推測する通り、夢の舞台は、覚醒時の表象生活の舞台とは、そもそも別物なのである。
Er vermutet vielmehr, daß auch der Schauplatz der Träume ein anderer ist als der des wachen Vorstellungslebens.

フロイト全集4,p.72(GW2,p.51)

4:仏原文は「aux quatre coins du schéma」となっている。「aux quatre coins de ~」で「~の至るところで」という慣用表現であるが、字義どおりには「四つの角において」となる。独訳も英訳も字義どおりに訳しているため、ここでも字義どおりの方の訳を採用した。

5:

分析家にとって、患者が自分のイマージュをSへと移していくのを助けることが重要なのです。というのは、このSこそが、明らかにされるべきもの、名を持たぬものであり、Sから大文字のAへと直接の回路が完成されない限り、その名を見出すことのできないものですから。

精神病(下),p.5

6:エクリp.589にもle mortとjeuの関係が書いてある(独訳の訳注より)
またここではdu mort となっているのでle mort であってla mortではない。なのでここは「死」と訳すべきではないと思われる。

7:この箇所に出てくるmortについても女性名詞と解釈した。

8:元の語がprojectifなので射影は投射でもある。加えて、Finkの訳には問題がある。何故ならクロスキャップははめ込みをされ、情報量が落ちる前のものであって、射影空間にはめ込まれたものではないからだ。

9:エクリの原文ではフラクトゥールIで書かれているが、フラクトゥールではIとJの区別が基本的にはないので、佐々木訳ではJとなっている。ここではFInkの訳、文脈を鑑みてIでとる。

10:ファルス、子供、母のこと。S4邦訳上p.28、staferla版S4,p.14を参照のこと。

11:独訳ではこの論争の内容は「ファリックな段階が一次的な性質であるか二次的な性質であるかについて」と解釈されている。

12:原文では férues du principe du « chacun son »となっており、féruesはferirの過去分詞であるが、それでは意味が通らない。ここではfinkにしたがってférus du principe~ととって「~に夢中である」と訳した。独訳では該当箇所はverfochtenとverfchtenの過去分詞でとっており、これは féruesとして訳している。日本語訳するなら「~という原則と闘っている」になると思われる。

13:原文ではaux boys le phalle, aux girls le c…だが、補えばaux girls le conであろう。le conは女性器を意味する。英語のcuntに対応する。





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