見出し画像

信仰を「推し活」と捉えてみる

こんにちは、しずくです。

長く私の発信を読んだり、聴いたりしてくれている方はご存知だと思いますが、
わたしは「宗教」について勉強するのが大好きです。

とくに3大宗教。
ユダヤ教、イスラム教、キリスト教はかなり長いこと学んできました。

わたしは多神教、アニミズムの考え方が好きなので
上記の一神教を信仰する事は無いのですが、
これら一神教が持つ独特のパワフルさというものには、心惹かれます。

今はイスラム教についての関心が高いので
ムスリムの人たちに話を聞くことが多いのですが、
彼らの日常の中には宗教が入り込んでいて、生活そのものが宗教の上に成り立っているという感じ。
宗教が存在する上、での生活。

客観的に見ると
お祈りを1日に何回も行ったり
ラマダン(断食)があったり
着るものの指定があったり、など
とくに日本人からすると制限が多いように思えるのですが
やることが決まっていたりお祈りの時間や回数が決まっているというのは、むしろ心を落ち着けてくれる「指針」となることもあるんじゃないかな。
儀式を行うということは、心を落ち着かせる作用もあると思います。

日本でも神社にお参りをするときなど
真剣にお祈りをすることで
心に平穏が訪れたり、気持ちがすがすがしくなったりなどは経験ができることですね。

日本人では毎日の習慣にしている方は少ないかと思いますが、彼らの生活の中では当たり前に根付いているのが祈りであり、宗教です。

イスラム教について教えてもらうときには私自身の信仰についてもしばしば聞かれるのですが、
私は神道を信仰していると返答しています。
(厳密に言えば神道は宗教ではありませんが、信仰という意味では1番私の考え方に近い。)

神様はどこにでもいる。自然の中にもいる。
川や山や木や、それから虫や植物にもいる。
果ては芸術作品などに対しても
「神は細部に宿る」
と言う表現をするなど
日本人の神様に対する考え方は、私にとってしっくりくるものです。

ただそれは一神教の彼らにとって本当に理解が難しいことで。

じゃあその神様は誰が作っているんだ、や
なにを元にしてその話が出てきているんだ、
など質問をされます。
神道は宗教ではないので教義や聖典があったりするわけではないため
何を元にしているかと問われると
本当に『「私たちの心の中だ」としか答えられない』と返答するんですが、これを理解してもらうのはなかなか大変です。

だけど、わかってもらえなくても「知っておいて」もらえるだけで充分かな。
私が他の宗教について学ぶのも、「信じたいから」学ぶのではなくて「知っておきたい」から学んでいるわけです。

一神教も多神教も
神様を信じていると言う観点では同じですが、
神様が複数存在するということが彼らにはピンときません。

また私の考えでは
絶対的な存在がただ1人だけというところが非常に強い影響力を持つと感じています。
アッラーの教えに従うことが幸せに通じる。
厳密に言うと、最後の審判の日に天国に行くか、地獄に行くかアッラーに決めてもらう、というところを目指して、彼らは日常を送っています。

彼らの信仰心は本当に篤くて、私の背筋までピンと伸びるような気がします。
心が揺らいだときは、その教えに従えば間違いがないということが心の健康にも影響して気がしてなりません。

残念ながら日本では自ら命を断ってしまう割合が世界的にみてもかなり高く、特に若い方の悲しい話が最近でも多いです。

自分が揺らいだとき信じられる何かがあるかないかは
大きな違いになるはずです。

神様の存在を軸にする神道の考え方だと
「神様をどこに感じるのか」目に見える形があるわけではないので、信じるか信じないかはその人によってしまうのが難しいところ。

キリスト教の聖書のように、
イスラム教のクルアーンのように、
迷ったときに、これを開くと答えが見つかるというようなものがないので、
心が揺らぎやすくなりやすいのかもしれない。

絶対的に信じられる何かというのが当たり前に存在している環境と、自分で見つけなければならないという環境。
この違いが、日本で悩んだりする若者が増えている要因の1つかもしれません。
いや、若者だけではきっとないですね。どの世代にも言えること。

絶対的な正解があるという事は、絶対的な安心感につながるのかもしれません。

もちろん、それによる弊害もあります。
違った考え方を受け入れることが難しくなったりとか、今言われているダイバーシティーという観点では
課題とするべきこともあると思います。

ただ
心を寄せる、心の拠り所として大切に思うこと、思う場所の存在は、誰にとってもあると良いのではないかと思いました。

それが宗教であってもなくてもいいのですが、
日本人が、寂しいとか、孤独だ、とかつながりたい、という思いを抱えているという話を聞いてそんなことを考えています。

…ここまで書いてみて思ったけど、
信仰というのは
究極の「推し活」と言えるのでは?

推しが言うからやってみる。
推しが勧めるから食べてみる。または食べない。
推しに憧れるなら、似た格好をする。
(男性のイスラム教徒が髭を生やすのは、預言者ムハンマドを尊敬して真似をしているのだとか)

自分の意志で信仰を続けているのである限り
宗教がずっと身近にある人は
ものすごく強い軸を、生まれながらに備えているんじゃないかな。
(宗教二世の方たちなどは別です。
自分の意志で信仰するということが大切ですよね)

大きな括りでいえば、
私も「宗教という学問」を推しているのかもしれません。

いくら学んでも飽きないし、次から次に知りたいことが出てきます。
「推し」のある生活は、人生をより輝かせてくれるなぁと感じています✨

この記事が参加している募集

習慣にしていること

いただいたサポートは書籍代にさせていただきます。 得た知見を、わたしというフィルターを通して循環させていきます!