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なまえ について書きのこす

 わたしはハンドルネームを考えるのが苦手だ。TwitterにしろInstagramにしろ、もちろんこのnoteだって、名前を設定することを求められる。現実世界の繋がりのもと作成したアカウントの名前はそのまま本名を使うのだけれど、こうやって顔を隠して、ほんとうの自分が分からないようにして作ったモノの名前は本当に悩む。
 今回は本名から一字取って、「歩」とつけてみた。画面のこちら側にいるわたしの言葉をわたしに代わって話すもうひとりのわたしの名前。読みは「あゆむ」でも「あゆみ」でも「ほ」でも「ふ」でも好きなように。

 名前ってすごく特別なものだ。わたしにとってっていう個人的なところももちろんあるのだけれど、ずうっと昔から世界中で「名前」は特別なものとして大切にされている気がする。ファンタジーでも古典でも「名前」を契約として差し出したり、本当の名前を知られてはいけなかったり、そういうお話ってけっこうある。これは普遍的、ということなのだろう。
 それにしても、なんで名前って大切なのかな。ないと呼べないし、当たり前すぎるくらい当たり前のことなのかもしれないけれど。

 23歳、いまのわたしが考える理由がひとつある。

名前は初めて与えられる祈り、だから

 わたしは今、いのちがはじまる場所で働いてる。新しいいのちがまっさらな未来を小さな手に握りしめて産まれてくる。わたしは、人生でいちばん初めの大一番を乗り越えてきたその小さな体を綺麗に拭いてお母さん、お父さんの元にお連れする。そのときの表情。ひとりひとり忘れることはできない。やさしい、やさしい、その顔は上手くは言えないのだけれど、もしも「愛」というものに人としての体が与えられて表情をつけて描かれるとしたなら、こんな姿をしているのだろう、と素直に思う。
 その愛がいのちに与えるはじめての贈り物が「名前」なのだ。産まれる前から決めている人もいれば、候補を挙げておいてお顔を見て決める人もいるし、ギリギリまで漢字や画数で悩まれる方もいる。その全てが愛で、この小さないのちが抱える限りなく広い未来が、恵まれたものであるよう祈りが込められている。誰もがはじめて与えられる何よりも優しく柔らかく尊い祈り、それが名前だとわたしは思う。

 かくいうわたしも23年前家族から祈りを込めて名を与えられ、今もここに生きている。幼かった姉が、お腹の中のわたしの名前を呼んだ。その音に両親が画数や姉との名前の繋がりを考えて漢字を当ててくれた。未来に向かって歩いていけるように、わたしがもらったはじめてのプレゼントだ。
 話は変わるが、わたしは弱虫だ。すぐへこたれるし、めげるし、泣く。何回も何回も迷って、立ち止まって、ときには蹲って、それでも最終的にはまた立ち上がって自分の足で歩き出して生きてきた。
 名は体を表す、という。わたしはきっとこういう風にしか生きられないのだろう。姉がわたしの名を呼んだその時から、決まっていた。
 だからここでの名前も「歩く」の字を入れた。踏ん張らなくてもいい。歩けないなら立ち止まったっていい。立ち止まるのもできないくらい辛いなら座ったって、寝転んだっていい。でもそのあとは何回だって、どれだけ時間がかかったって、自分の足で歩き出したい。歩けるはず。支えてくれる人もたくさんいるから。

 これがいまのわたしがわたし(もしくはこの文章が目に入ったどなたか)に贈る「祈り」です。いつかどこかで思い出してもらえたらうれしい。

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