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画面上の世界で感じる、ちいさな劣等感


誰かの嬉しい話がSNSで流れてると嬉しいすごいと思う反面、私にはそんな魅力がないことに心がくすぶる。

例えば、誰かの成功談や友人の結婚報告とかは典型的だなと思う。

100%おめでとう!っていう気持ちでいっぱいになる人がいたら、その人は本当に他人の幸せも自分のことのように喜べる素敵な人だなと感心する。

少なくとも私はそうではない。
「私は私」と思っていても、「羨ましい」と思うし「なんであの子はうまくいって私はうまくいかないんだろう」ってどこかで思っている。
ちいさな劣等感に心が蝕まれていく。



先日、2年ぶりに仲の良い友人に会った。
SNSでちょこちょこ様子は知っていたけれど、ちゃんとは知らないことだらけで2年分の時の流れを埋めるように話に花が咲いた。

「この2年どうしてた?」と聞いたとき、どんなときも笑顔で弱音を吐かない友人は、楽しかった仕事がつらくなったこと、やりたいことがやれなくなったこと、恋人と別れたこと、そんな辛かったことも教えてくれた。

これらはSNSの情報にはなくて、写真ではいつも笑って楽しそうにしていた彼女にも2年間楽しいことばかりではなかったようである。


会う約束の日の少し前、小さく夢に近づいた報告を聞いたときに私は嬉しい気持ちが95%だったけど、残りの5%は「あの子は成功しているのに私は何もできてない」「成功が羨ましい」という感情が浮かんでしまった。
(大好きな友人の報告でさえ、こんな風に思ってしまう私の心の狭さはどうしたものか、、)

だけど、彼女の苦労や頑張りを聞いていると、私が羨ましく思っていた成功は努力や挑戦をしたからであって、楽して手にしたものではなかった。
5%のマイナスな気持ちはすぐに消し去った。



SNSでフォローしていたらほぼ自動でその人の私生活が見れるということは見たくなくても見れるような状態である。
大体の人が嬉しいことがあったときや楽しいことがあったとき「他の人にも見てほしい」と思って投稿している。もしくは誰かに共感を求めるようなことが多いような気がする。


その昔、まだ学生だったときに自分は勉強で忙しくて苦しいのにみんなは楽しそうに遊んでいる様子を載せている。それがなんとも苦しかった。

そんなとき当時仲の良かった年上の友人は、「みんな色んな苦労があるんだよ」って言ったけど、私は理解できなかった。「それでも結局は楽しいんでしょ?いつも遊んでる写真載せてるじゃん。」って。


月日は流れ、そのときの友人とおんなじ年齢になった。この数年で私は、色んな経験をしたり、SNSを当時よりは使いこなすようになり、なんとなく言いたいことが分かるようになってきた。

SNSは上辺の世界。
大好きな友人たちは自分のことを1から10まで話すような人は少ないし、それぞれの苦労も知るようになっていったから、彼ら彼女らの全てが画面上にあるとは思っていない。
それが分っているとSNSを見ることが苦しいことは少なくなっていった。



とはいえ、やっぱりその画面の目の前のことに多少の劣等感は感じるし、気持ちはくすぶる。そんなときもある。

どうにも目の前のことに弱いらしい。

でも、当時と違うのは、小さな目の前の世界だけじゃなくてもっと広い世界を知っているから、一時的な感情で済んでいる。
これは付き合わないといけないものなんだと思う。

これを自分の性格を卑下するだけじゃなくて、そういうものだと割り切って、適切な距離感で生きていくのが大切なのかもしれない。

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