「私」という長い詩
冬子はこの文章を読んだとき、うつわを作るろくろの上の艶やかな土を思った。回転する土に手をあてると内側の土は外側へ、外側の土は内側へ瞬く間に移動し、いれかわり、内も外もなくなってゆく。
その日その日に見たものをかさね、一年、十年と層を成してゆくことが生きていくということなら、人間とは内面と内面と内面が波紋のように広がる形象である、というのはとても納得できた。あてる手は誰の手なのだろう。自分の手か、もっと大きななにかの手か。
内面の一層一層がきれいでありたいというのはなかなか難しく、現に母が入院したため、ひとり暮らしをしている父のところへ行くのが冬子は面倒になってきていた。万が一、誰も来れなくなった場合を考え、電子レンジだけは使えるように練習したとき、ふたを少しだけはがしてレンジをすれば、炊きたてのようになるパックごはんに父はたいそう感心していた。冬子には使いなれたものを、まるで魔法のように見る父はただただ新鮮だった。
若かった頃、恋人と流れるプールを歩いていたとき、ふと冬子は水にもぐると、人々の足をかきわけ円形状プールの半周先まで潜水で泳ぎ、そっと顔を出した。恋人はキョロキョロしながらうしろを見たり、ときに止まっては、ゆっくり流れにそって歩いていた。あと三メートルくらいのところで冬子に気づいたときの表情、近づいてくるまでの私たちのあいだにあったものは、しあわせのようなもの、真心のようなものといってもいいのかもしれなかった。
話のひとつに『永遠と一日』という映画のことが書かれていて、冬子はもういちど見たかった映画を思いだすことができた。この歳になると、どこにも書き留めていないことはないことと同じになる。映画に出てくる三つのことば(私の小さな花)(異邦人)(遅すぎた)もさっぱり思いだせなかったが、また新たな気持ちで見れるなら、それはそれでいいかと思う。二十五年前の映画もくっつけ、「私」という詩はまた少し長くなったのだった。
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