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完全に夏が来た

ピシッとしたオフィスカジュアルの服に、バンドマンみたいな風貌がくっ付いている男2人が レコーディングの締切を守らない女 の話をしていた。かつてだらしなかった男たちは社会に迎合して、社会に迎合しない女の世話をすることになったのだろう。社会に迎合しない若い女は責務から逃れる代わりに青春とか、すぐそこまで迫っている夏とかを目一杯享受するのだろう。そして夏が終わり日が暮れて、脂気のない和紙のような肌に老いの翳りが差すのはいつなのだろうか。

誰もが雑居ビルの螺旋階段でタバコを吸う老人の役目に到達しないと思っている、一度も歩いたことがない道を歩いて、狭い路地や薄汚れた鉄柵がひしめき合う住宅街を瞥見し、それぞれの人生に思いを寄せるということは、自分が未だ人生の主人公であると思っていなければ出来ないことだ。若さの傲慢、孤高、周囲を巻き込みながら絶え間なく自己を変化させる力は凄まじい。陰鬱とした鉄条網、薄汚いビルの外壁、ガンジス川に犇めき合う白癩の乞食でさえも、甘いケーキの上に乗った肉桂がケーキの芳醇な味を引き立てるように、若さを際立てるスパイスにしてしまう。

しかし雑居ビルの螺旋階段でタバコを吸う老人の役目は駆け足でこちらにやってくる、若さを持って眺めていた風景が駆け足で迫ってきて、こちらが見られる側になる瞬間が存在する。汗ばむ肌、赤みを帯びた頬が失われ、皮膚に重力の牽引を感じる様になった頃、女は百夜(ももよ)、青春と夏から追い出されたことへの無数の呪詛を唱えることになる。

満ち足りたと思えば一瞬で消える肉の喜びを手にしている場合、若さは急速に失われ、加齢による偏屈な心ばかりが増すことになるが、夏を全力で駆け抜けることによって無限の時間を手に入れて、永遠の若者になる女もいる。向上心、超克、挑戦、絶え間なく行われる無数の変化... 止まることのない行動と思考が水槽の硝子に小さな穴を穿って、そこから潤沢な水がとめどなく溢れ出す。鑢ひとつ使わずにあらゆる腐敗と老醜の牢獄から脱した永遠の若者は、この世界を夏と青春の諸手で抱きかかえ、純白の絨毯が敷かれた朽ちない若さの大伽藍の下で健やかな寝息を立てて眠るのだろう。



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