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母という呪縛 娘という牢獄

深夜3時42分。母を殺した娘は、ツイッターに、

「モンスターを倒した。これで一安心だ。」

と投稿した。18文字の投稿は、その意味するところを誰にも悟られないまま、放置されていた。

2018年3月10日、土曜日の昼下がり。

滋賀県、琵琶湖の南側の野洲川南流河川敷で、両手、両足、頭部のない、体幹部だけの人の遺体が発見された。遺体は激しく腐敗して悪臭を放っており、多数のトンビが群がっているところを、通りかかった住民が目に止めたのである。

滋賀県警守山署が身元の特定にあたったが、遺体の損傷が激しく、捜査は難航した。

周辺の聞き込みを進めるうち、最近になってその姿が見えなくなっている女性がいることが判明し、家族とのDNA鑑定から、ようやく身元が判明した――。

髙崎妙子、58歳(仮名)。

遺体が発見された河川敷から徒歩数分の一軒家に暮らす女性だった。夫とは20年以上前に別居し、長年にわたって31歳の娘・あかり(仮名)と二人暮らしだった。

さらに異様なことも判明した。

娘のあかりは幼少期から学業優秀で中高一貫の進学校に通っていたが、母・妙子に超難関の国立大医学部への進学を強要され、なんと9年にわたって浪人生活を送っていたのだ。

結局あかりは医学部には合格せず、看護学科に進学し、4月から看護師となっていた。母・妙子の姿は1月ころから近隣のスーパーやクリーニング店でも目撃されなくなり、あかりは「母は別のところにいます」などと不審な供述をしていた。

6月5日、守山署はあかりを死体遺棄容疑で逮捕する。その後、死体損壊、さらに殺人容疑で逮捕・起訴に踏み切った。

一審の大津地裁ではあくまで殺人を否認していたあかりだが、二審の大阪高裁に陳述書を提出し、一転して自らの犯行を認める。



母と娘――20代中盤まで、風呂にも一緒に入るほど濃密な関係だった二人の間に、何があったのか。

公判を取材しつづけた記者が、拘置所のあかりと面会を重ね、刑務所移送後も膨大な量の往復書簡を交わすことによって紡ぎだす真実の物語。

獄中であかりは、多くの「母」や同囚との対話を重ね、接見した父のひと言に心を奪われた。そのことが、あかりに多くの気づきをもたらした。

一審で無表情のまま尋問を受けたあかりは、二審の被告人尋問で、こらえきれず大粒の涙をこぼした――。

殺人事件の背景にある母娘の相克に迫った第一級のノンフィクション。

講談社BOOK倶楽部



当時ニュースになったこの事件、
なぜ、その娘は母親を殺さねばならなかったのか、
その母は娘に殺されなければならなかったのか、
わたしも、母にとっての娘であり、ムスメにとってのハハであるためにとても興味深く、この一冊を手に取りました。



思いのほか、あっさりと読み終わってしまいました。
その母娘には、どちらにも、共感はできないまま。



わたし、前職では、幼児教室の講師をしており、たくさんの親子と出会いました。

賢さ(賢そうに見える、というのもあるだろうけど)や、お行儀の良さについて、自分のこどもだけが【特別によくできて】良い子だと思っている痛々しい親御さんは、いました。
小学校受験をさせる子どもに、その、親の出身校である有名校でなければ学校ではない、と言った親もいれば、
他の子を誉めた講師に、「うちの子も褒められたけど、うちの子はあのこ(なんか)と同じレベルですか」と問い詰めた親もいます。

逆に、もちろん、子どもを尊重し、適正を見極め、将来の選択肢が拡がるように導き、促している親御さんもいらっしゃいました。
お絵描きのレッスンの前に、「おもいっきり汚しておいで」と送り出せるような親御さんは、素敵だな、と感じたものです。(お絵描きのレッスンだから、汚れてもよい服装で送り出し、汚しておいで、とおっしゃっていて)

どこも他人の家庭なので、とやかくいうことはないのですが、わたし自身も子育てをしているので、いろいろと思うところはありました。

ムスメが小さい頃は、
わたしがひとり親で育てていることもあり、
なにかにつけて「ひとり親だから」とか「ひとりっこだから」と言われてしまうのではないかと、わりと厳しく、それが躾というのかわからないけれど、厳しくしていたと思います。
習い事もいろいろさせて、お勉強も、そこそこできて当たり前だと思っていました。
宿題しなさい、
部屋を片付けなさい、
勉強しなさい、
それはたぶん、どこのご家庭でもあまり差がない程度に、言ってきました。
小さな嘘をついたことを厳しく咎め、
わたしはあなたのためにこんなにがんばってるのに、と、言って泣いたこともありました。



わたしの母は、常にやさしく、わたしのよき相談相手であり、理解者であり、味方でいてくれていたので、母のようなハハになりたいと(なかなかとても難しそうなのですが)思ったことや、わたしにはほんとうによい友達たちがいて、「ふみちゃん、それはちょっと厳しすぎだよ」とか「もっとこう言った方がいいよ」と注意してくれたりもしたこと、ムスメの携帯電話の使い方を厳しめに制限していた時に、友達の子どもで、ムスメの同級生が、「ふみちゃん、子どもには子せかいがあるよ」と否めてくれたこと、幼児教室で様々な親子に出会ったことは、その後のわたしの子育てに、信念のようなものをもたせてくれました。


ムスメはムスメ。わたしはわたし。
あなたはわたしとはちがう。

それを自分のなかではっきりさせたことによって、わたしの子育てはずいぶんと、気楽で自然なものになったと思います。
うちのムスメ、成績はオール3ですけど、たのしそうに過ごしています。
将来はどういう道がいいかな。こういう道がいいんじゃない。と話あって、進学先も決めています。
悪いことをせずに、嘘をつかずに、ひとに迷惑をかけないように、元気に生きてくれたら、いいじゃないですか。


子どもが一生懸命勉強するのは、親の鼻を高くするためではありません。
子どもがお医者さんを目指すのも、親の鼻を高くするためではありません。
教育虐待。
それは、誰のために?なんのために?



きっと、殺さずに済んだ。
きっと、殺されずに済んだ。



両方の狂気と暴走を、誰かが止められた。
きっと。

そう思うとせつない。
そんな、ルポルタージュでした。


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