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「卒業」のはなし

1.卒業式とわたし

どうにも、「卒業」というものと巡り合わせの悪い星の元に生まれたらしい。

小中のときは友人関係の構築が今以上に下手くそで、ひたすらに辛い学校生活を送っていた。
下手くそなら下手くそなりに、女子同士の友情に見切りをつけて一人で楽しむ方法を考えればいいものを、「友達の多いキラキラした生活への憧れ」を捨て切れずぶちぶち過ごしていたのだから、そりゃあ孤立もしよう。

小学校の卒業式もひとりだったし、中学校の卒業式もひとりだった。

なまじっか目立つこと(ずっと学校・学年・学級の指揮者といえばわたしだったし、弁論はわたしのお家芸だった。勉強も、そのときは、まあちょっとはできた)が好きなだけに、一緒に歩く人がいない通学路は果てしなく長かったし、喋る人のいない休み時間は永遠に終わらないような気がしていた。

だから、卒業アルバムの一番後ろのページは真っ白だった。
みんなが地面にアルバムを広げて寄せ書きしている横を、ひとりテクテク歩いて帰宅した。
卒業文集の「〇〇ランキング」には「頭がいい人」くらいにしかランクインしていないし、自分の文章は色々なものを見ないふりしたせいでやたらに自己陶酔しているし、途中で捨てて帰ろうかなと思ったくらいである。

学区内ではトップの公立高校に入ったとき、こんなに楽しくていいのかと思った。
仲の良いクラス。優しい友人。みんなが参加する合唱コンクール(わたしの中学校はたいへん荒れていたので、合唱コンクールは女子の声しか聞こえなかった)。部活。買い食い。カラオケ。プリクラ。

そんなわたしの「青春」の床がぼこんと抜け落ちたのは、高校3年生の5月だった。
保育園・小学校・中学校、どの卒業文集にも、わたしは「将来の夢は医者」と書いている。
そのときも、なんとなく医者になれるような気がしていた。予備校の面談室までは。
「うちの予備校では、この成績の子は預かれない」と言われたんだったか。
床が、抜けた。

次の週から、学校に行かれなくなった。
一度休み始めると、もうどうしたらいいかわからない。
床下は、絶望ごっこするのに最適だった。

ほんとうは、わかっていたのだ、わたしには無理だと。
「勉強ができる」のも、文系だけ。数学にはだいぶ早くからついていけなくなっていた。
ただ、それまで18年間積み上げてきた「勉強のできるいい子」の像からズレていく自分を認められず、わたしはひたすらに世界を憎むふりをした。
優しい家族と友人たちはそれを黙って見守っていてくれたけれど、それがどれだけ難しいことだったか、今考えると申し訳なさに鳥肌が立つ。

手首に傷を作り、腐っていく性根を隠しもせず、日に日に投げやりになっていくわたしに、果敢に挑んできてくれた人がいる。それが、H先生だった。

H先生は国語科の教員で、とても人気のある先生だった。なんとなく、権威的なものには、屈しない感じ。高校生がやりたいことを、全力でやらせようとする感じ。先生はきっとわたしたち高校生のことが好きだった。

H先生は、当時わたしの携帯電話に電話してくる唯一の人だった。
「ちょっと出てこないか」という先生の声を、今でも鮮明に思い出せる。
国語科準備室はいつも西日が指していて(朝起きられなかったので、先生は放課後にわたしを呼んでくださった)、すべてがセピアっぽく霞んでいた。
わたしの痛々しすぎる掌編ひとつひとつにコメントを下さり、わたしの話を聞き、笑ってくれた先生の、黄色いブルゾン(先生はとてもお洒落でいらした)。

ただ、わたしの存在を肯定するためだけにあったあの時間の尊さを思うと、今でも涙がにじむ。

H先生が「今日は来いよ」と仰ったことがあった。
その日は、卒業アルバムのクラス写真の撮影日だったのだ。
母校は当時「自由」を公然と掲げた公立高校で、クラス写真にどれだけ創意工夫(と言う名の悪ノリ)を仕掛けられるかが勝負のような風潮があった。
もちろん、行きたくなかった。

その時点で既に単位不足で、卒業できないとわかっていたから。

みんながキラキラしているのを知っていたし、そのキラキラしたみんなは絶対にわたしを拒絶しない。それが、いっそうわたしの足を重くさせた。
それでも先生は根気強く「おいで」とわたしを誘い、わたしはわたしで怯える自分をなだめすかしなら電車に乗った。

「おお来たかよかった、待ってたんだ」と言うなり、H先生は河原へ向かった。河原にはワイワイクラスメイトが集まっていて、わたしは誰かが借りてきた誰かの学ランを着て、おかしな格好をした友人たちと一緒に写真におさまった。

そして、学友たちの卒業式の後日、国語科準備室で、わたし一人の「卒業」式が執り行われた。
わたし一人のための「卒業」証書を受け取ったとき、窓の外は何色だったか。先生はどんな表情をされていたか。わたしのきもち。

実はよく覚えていないのだ。

全部をくるくる丸めて、わたしはそれらを筒に入れた。
直視したら、泣いてしまうから。

その後、わたしはどうにか高卒認定試験をうけ、私立大学に合格し、同時に個別塾でアルバイトを始め、そのままその塾に就職した。

そして、その当時のことを書いた短いエッセイで賞を受賞した。
それが、三井住友信託銀行主催「わたし遺産」である。

H先生と久しぶりにお会いして、当時のことを話すと、驚く程わたしは何も覚えていないことが判明した。そのたびに溢れそうになる涙を堪えたので、写真写りは普段にまして悪い。

たくさんの人に声をかけられ、褒めていただき、そのたびにイヤイヤと手を振りながら、わたしは都度「これはH先生の賞だよなほんとうは」と思っていた。

記事のインタビューのあと、H先生に「泣いてばかりですみません」とメールを送ったら、「取材後にホテルの廊下のソファーで読んだ時、私も涙目になりました。何でかな?」と返信があった。
何でかな、とわたしも考えて、「ああそうか、わたしが卒業したからだ」と思い至った。

金髪で、猫背で、手首にじゃらじゃらしたものをいっぱいつけて、世界を睥睨していたひとりの女子高生が、曲がりなりにも大人になって、自分の力で生きていること。

卒業したこと。

それはとても些細で、当たり前のことではあるが、全力で関わった大人たちの目に、自然と涙を呼ぶものなのだ。それが自分自身のことでも、随分前の手のかかる教え子のことであっても。

卒業式シーズンになった今、当時のわたしの気持ちをなんとなく思い起こすことが増えた。
当時の自分の背中に手を添える気持ちで、生徒たちに寄り添いたいと思っている。


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