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アウトプットの呪縛から解放される、自分が主役の考え方

いつも読んで頂きありがとうございます。
Amuletの迫頭です。

今日のお話は、私の思考について。
誰が興味あんねんwっていうコメントはご勘弁を。

「あなたにとって豊かな旅ってなんですか?」
世界中を旅している、ある写真家に向けられた質問です。

それに対して、
「自分のために旅をすること」と答えていました。

また「誰に見せるわけでもない写真がたくさんある」とのコメントも。

これが私にはグサッときたわけで。

毎週note、Twitterも毎日投稿すると決めていると、日々「これはネタになるな」など思考がそっちに引っ張られる感覚があります。

先ほどのコメントを見た時 「おれ、アウトプットに支配されてないか、、」ってふと思いました。

日々情報を発信することで、カラーバス効果にもある通り気付きが多くなるのはいいことだと思います。

一方、思考が凝り固まってしまったり、通り一辺倒になるのではと感じたりもするのです。

投稿する限りは誰かの役に立つ情報でないと、、、との想いもあり、noteやTwitterはきちんと考えて書くのが当たり前だと思っています。

しかし、先ほどの写真家さんのコメントを見てから、誰のために生きているのか、そんな本質的なところが気にかかり引っかかっていました。
おそらくこの方も、日々写真を撮り続け、それを写真集にしていらっしゃるのだと思います。
そう考えると、何か「ネタ」を探し続けておられるんじゃないかと思うんです。でも、私とは少し違う。

自分自身の感覚を鈍らせることなく、自分が「好き」なモノを持ち続けているというか、その感覚も大切にされているんだろうと思いました。

私も、自分のために。
誰に語るでもない話も積み重ねていこう。と改めて心に決めました。

この話を書いている時に、ふと思い出したことがあります。
去年の秋、鳥取県に行って砂丘に立ち寄った時のこと。
砂の山から海を一望したんですが、なんとも言えない、言葉にならない気持ちよさがあったんですよね。

これは別に誰かに何かを届けたくて行動したわけではありません。
でも、ここ最近では心が揺さぶられる体験でした。

これがきっと、今の私に必要なことなんだと感じています。

私はいつの間にかアウトプットのため、要はnoteやTwitterに載せることを前提に行動することがありました。
もしかしたら同じような感覚の方がいらっしゃる気がしたので取り上げてみました。

そういった行動から生まれたアウトプットって、どこか一般論というか、味気なく自分らしさを感じないんですよね。

発信することは誰かのため。だけど、元々は自分のために行動したものから得た体験にこそ価値があるのだと思います。
その証拠に、私が書いたnoteの投稿で一番読まれているのは、10年以上前の自身の体験をせきららに書いているものでした。
あまりない体験だったことも一因かもしれませんが、やっぱり自分自身が偶発的に得た、心をえぐられた体験は、周りへの影響度も高いのだと思います。

このnoteを読んでくださる方の中にも、日々情報発信に取り組まれている方がたくさんいらっしゃると思います。

みなさんはアウトプットのために、行動していませんか?
もし「う〜ん」と思われたなら、立ち止まって考えてみてください。
それもアリだと思いますが、人生の主役は自分ですから。
ぜひ、自分のための体験を重ねてもらえればと思います。

また来週お目にかかりたく思います。

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