あおち

99’ すてきな言葉が好き。すてきな表現が好き。繊細なこころが好き。

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99’ すてきな言葉が好き。すてきな表現が好き。繊細なこころが好き。

最近の記事

きっと、どうしようもなく

「親には恵まれたな」 「親を尊敬してるんだ」 そう胸を張って言える人と話すたびに、 あぁ、きっと、ここにある『スキマ』は埋まらないんだろうな、と痛感してしまう。 きっと、わたしは自分を悲観しすぎている。 きっと、みんなそれぞれいろんな事情を抱えていると思いながら、 人と比べるものではないと思いながら、きっと、もっと大変で戦ってきた人がいると思いながら、 それでも強く羨望してしまう。 きっと、対話相手からの同情を引こうと自分の話をして けれども、対話相手が「恵まれた」人

    • 『自己』肯定感なのに

      昨年、とある企業から面談に呼んでいただいた。 いわゆる「面接」のように、決まった質問を淡々とこなす、というものではなかった。 その企業が用意した面談とは 就活生の本音を引き出そうとフラットな質問を繰り返し、親身に丁寧に話を聞く、そんな素ぶりをしながら 目の前の人の発言を、自分が理解できる範囲で切り取りラベリングして、俯瞰したような物言いで優越感に浸る そんな大人と話す場所であった。 (あくまで穿った物の見方しかできないわたしの所感であり、当人にはそんなつもりがなか

      • 大事にするって、なんだろうなぁ。 大事にされたことがなくて、わかんないや。

        • わたしはわたしの、相手ばかり優先して深読みして、なにも主張できないところが生きづらくて嫌いだったけど、だからこそ同じ生きづらさを抱えている相手に、その難しさを押し付けずにいられる人間であれて、本当によかった。

        きっと、どうしようもなく

        • 『自己』肯定感なのに

        • 大事にするって、なんだろうなぁ。 大事にされたことがなくて、わかんないや。

        • わたしはわたしの、相手ばかり優先して深読みして、なにも主張できないところが生きづらくて嫌いだったけど、だからこそ同じ生きづらさを抱えている相手に、その難しさを押し付けずにいられる人間であれて、本当によかった。

          わがまま

          人が他者に対して、『わがまま』を伝えることができるのは きっとそれまでに『わがまま』を誰かに受け入れてもらった経験があるからで 本来、きっと、1番に受け入れてくれるはずの存在から、ずっと自分を押し殺し、いい子でいることが正しいと強いられてきた私は 未だに他者に『わがまま』が言えなくて ふと、気を許して『わがまま』を伝えることができても 上手な甘え方を知らないわたしは、きっと、どこか、伝え方を間違えていて そうして再び「否定」や「拒絶」と対峙して 結局やっぱり、『

          わがまま

          自己肯定感ひくひく人間だから誘われたら断れないけれど、本当に大切にされるのは、こんなちょろい人間じゃなくて、自分を大事にできている人間なんだろなぁ。

          自己肯定感ひくひく人間だから誘われたら断れないけれど、本当に大切にされるのは、こんなちょろい人間じゃなくて、自分を大事にできている人間なんだろなぁ。

          関わった相手への愛着がめちゃくちゃ強くなっちゃう私は、誰からも執着されないことに寂しさを覚えているけれど、だからこそ釣り合いが取れているのかなとも思います。

          関わった相手への愛着がめちゃくちゃ強くなっちゃう私は、誰からも執着されないことに寂しさを覚えているけれど、だからこそ釣り合いが取れているのかなとも思います。

          普段から人に冷たいキャラクターの人は時おり見せる優しさだけで得をするし、普段から人に優しいキャラクターの人はたったちょっとのボロで損をするの不公平だなぁ。

          普段から人に冷たいキャラクターの人は時おり見せる優しさだけで得をするし、普段から人に優しいキャラクターの人はたったちょっとのボロで損をするの不公平だなぁ。

          まとまらないけれど

          わたしは何かの出来事の渦中にいるときに、その時の感情を自分自身で理解することが苦手です。 だから今まで書いてきたnoteも全て過去の話。 渦中にいるときは、どうしても気持ちがこんがらがってうまく整理できなくて、時には自分でも勘違いしてしまってうまく伝えられないことのほうが多かったように思います。 だけど今、この8ヶ月の留学を間もなく終える今、あえてとっ散らかった感情を書いてみようと思います。 もしかしたら、後で読み返して「ちょっと違うな…」と自分で首を傾げてしまうかも

          まとまらないけれど

          すべてのフィルターをとっぱらって

          わたしの友達のお話です。 彼女は知り合いもいない状況で単身、フランスに留学に来ました。 学校も始まらず、来たばかりで友達も出来ず退屈していたころ、寮のキッチンである男の子と出会います。 彼は、彼女がフランスに来たばかりだと知ると「じゃあ出かけよう!」と、街中を案内してくれました。 それから何度か、「みんなでご飯食べてるからおいでよ!」「一緒に映画を観よう!」と誘ってくれて、彼女は断る理由もなく、「国際交流だ!」とむしろワクワクしながら向かっていたそうです。 彼のリュ

          すべてのフィルターをとっぱらって

          昔から「自分はあんまりツイてないな」と思うことが少しずつ少しずつ重なっていったおかけで、たいていのうまくいかないことは「まぁわたしだしそんなもんか」って気にしなくなった。逆説ポジティブ理論。

          昔から「自分はあんまりツイてないな」と思うことが少しずつ少しずつ重なっていったおかけで、たいていのうまくいかないことは「まぁわたしだしそんなもんか」って気にしなくなった。逆説ポジティブ理論。

          わたしの人生だれの人生?

          幼い頃から「勉強をしていい成績をとること」をきつく言われていた。 小学生のころ、お正月に嵐が4・5時間ぶっ続けで特番をしているのをテレビの前でかじりついて見ていたら 「まだ見てるの?」 と言われ、わたしは最後まで見ることなくテレビのない自室に戻った。 中学生になって最初のテスト、 当時わたしが所属していた部活動はテスト期間の練習はもちろん休みだったけど、夜の時間に外部での練習はしていた。 わたしは参加したかったが、させてもらえなかった。 反骨精神というか、半分拗

          わたしの人生だれの人生?

          「正しい」なんてない

          幼い頃から、両親はわたしの「先生」だった。 なかなか友人ができないわたしにとって、1番親密に関わるコミュニティが家族。 両親は絶対で、絶対に正しいと思っていた。 いつからか、両親が完璧でないことに気づいた。 それは成長するにつれて自分自身で得た知識や、出会った人の考えの影響だと思う。 大人も先生も、誰もが「間違える」ことがあると気づいた。 そうすると、なにが正しくて、なにが正しくないのか、 なにが善くて、なにが悪いのか そういったことが、全く分からなくなった。

          「正しい」なんてない

          きっといつか懐かしむ

          きっといつか懐かしむ

          忘れられない先生

          わたしが中学2年生のときの1年間だけ、部活の顧問をしてくださっていた先生がいました。 先生は学生のとき、全国大会や国体で入賞を目指せるほど陸上のスーパーエリートだったらしいです。 わたしが3年生になった年に、結婚されて遠い県外に行かれてしまいました。 とてもお世話になったと思っていたので、先生が離任される際に手紙を渡し、その時に引越し先の住所も教えていただいてました。 3年生になったわたしは、中学で部活ができる最後の年に、自分の実力不足で目標としていた大会に進むことが

          忘れられない先生