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科学と宗教の違い

 今日、京大熊野寮にて「反ワクvs京大生」というイベントがあり、そのイベント自体は京大生によって仕組まれた茶番劇だったのだが、ほんのちょっとだけ宗教の話が出たので書く。あと、なんかスラムとかいう謎のslackグループに入って、自己紹介がてら文章でも書くかという気になったというのもモチベである。

 結局のところ科学と宗教は根本的になにが違うのであろうかというのがこの文章の主題。

思考の三要素

 私が勝手に三要素と呼んでいるだけで、世の中で通用する言葉ではないので注意。思考の三要素とは以下の3つである。

  1. 公理体系:証明抜きに認めてしまう事実

  2. 論理体系:物事を考える際のルール(呼び方として論理体系を公理体系に含んでしまうことも多い)

  3. 観測/実験事実:その名のとおり、実際起きていること

この三つのありかたが、宗教と科学で根本的に違う。

科学の場合

 科学の場合は思考の三要素がガチガチに固まっている。一番すごいのは数学である。

 数学者は、何か定理を証明したいときは適当に図を書いてみて本当に成り立っているか確かめる。これは要するに観測/実験事実の確認である。そののち、公理体系と論理体系から、全くの矛盾もない証明を組み立てる。

 たとえば、小学校から高校までの数学で扱う幾何学は以下の5つの公理体系や論理体系のみからなる。

  1. 任意の一点から他の一点に対して直線を引くことができる

  2. 有限の直線を連続的にまっすぐ延長することができる

  3. 任意の中心と半径で円を描くことができる

  4. すべての直角は互いに等しい

  5. 直線が2直線と交わるとき、同じ側の内角の和が2直角より小さい場合、その2直線が限りなく延長されたとき、内角の和が2直角より小さい側で交わる

他のサイエンスも同じである。観測事実がまずあり、それに合致するような公理を論理体系に基づいて組み立て、論文にする。この場合、論理体系というのは「統計を誤魔化しちゃいけないよ」とか「ちゃんと査読した論文しか信用しないでね」というようなことである。

宗教の場合

 私はこの前適当に上野公園をぶらついていたとき某宗教に勧誘された。暇だったので話を聞いてみたのだが、意外と公理体系・論理体系・観測/実験事実を大切にしているようである。

 宗教の場合の公理体系は経典だ。キリスト教でいうところの聖書にあたる。神学などは聖書をもとにいろいろなことを研究する学問だ。かつてキリスト教圏では地球は6000年前にできたと考えられていた(現在の科学では約46億年前とされている)。これは聖書に登場する話のネタを全て足し上げると6000年前だったということだ。

 宗教の場合の論理体系は、人間感情だ。これは一例に過ぎないが、不安だから現状維持してしまう人間の傾向だとか、周りに流されてしまう同調圧力だとかそういったところだ。

 宗教の実験事実は奇跡だ。死んだ人が蘇っただとか、ガンが治っただとか、そういったことだ。

科学のいいところ

 私は科学を信じている。よく「科学も論文などを無批判に信用しているのだから宗教と同じだ」と言われる。その考え方は非常によいと思う。とはいえ、私が科学を信じるのにも理由がある。ざっくりいえばすっきりしているのだ。

 いくつかポイントを挙げる

公理体系がスッキリまとまっていてかつ少ない

 単純に、学校の教科書と宗教の経典どちらがわかりやすいかということだ。わからないものはどうしても信じられない。経典のようなものは一旦、「既に理解している人」の助力があってやっと読み解けるものである。人間不信の人にはきびしい。

 そして、何より公理体系が少ないというのは超最強である。天動説では火星は「地球の周りを回る円軌道を回る円軌道を回る円軌道を回る…軌道を回っている」と考えられていた。軌道は円でなければならないからだ。しかし、科学は地動説を採用した。「地球が太陽の周りを回っている」というたった1つの公理を認めてしまえば、一発で説明できてしまうからだ。

 別に1000000000000個の公理を採用すれば天動説でも宇宙の全てを説明できるとは思う。しかし、そんなものに意味はない。証明抜きに認めてしまう事実なんてものは少なければ少ないほどよい。

論理体系に一貫性がある

 まあ、要はダブルスタンダードがないということだ。たとえば、どんな宗教でも「植物は食べていいのに動物は食べちゃいけないのはなぜ?」みたいなことが発生しがちだ。理由を説明できるならいいのだが、大抵の宗教はできていないのではないか。

 一方で科学では全てが演繹だからちゃんと論理に一貫性がある。論理学の人たちなんかは証明図みたいなのを作って全ての思考プロセスにおいてどの論理のルールを使ったかみたいなのをこれでもかというくらい確認している。

観測/実験事実に再現性がある

 これは少し論理体系に近いかもしれない。単純な話「奇跡が起きたって伝えられています」って言われても信じられない。科学では再現性が常に求められる。論文には「このような手順でやればあなたもこの実験を再現できます」というのを書かなければならない。

 「これ、ほんまにあったんか?」と聞かれたら「ほならね、自分でここに書いてある手順再現してみりゃええやないですかい」で全てが終了する。

まとめ

 というわけで、科学と宗教は、公理体系・論理体系・観測/実験事実の三つの面で違うよという話をした。その上で、私は科学を信じるよと宣言する。


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