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あの男

10年ちょっと前、学生の頃付き合っていた男はCLINIQUEの香水を使っていた。今でもその香水の香りで思い出すのはあの男のことと、あの男としょっちゅう通った駅のすぐ横のビルのバーのことだ。

バーでカウンターに横並びに座り、ほろ酔いになって終電も近くなった時間に、あの男は毎回きちんと「今日は帰さへんからな」と律儀に私を口説いた。顔馴染みのマスターに聞こえないように、私の肩に自分の肩をぴったりくっつけて耳打ちをするのは最早癖のようになっていた。男の肩が触れ合うと、香水の柑橘系の香りに混じって、男の肌のほのかに砂浜のような塩気のあるかさかさとした香りがした。付き合って何年経っても私たちは友達や家族のようになることはなく、どこまでも欲の絡んだ男と女だった。

男は別れてからしばらくしても私をバーや居酒屋に連れ出しては「お前の事が忘れられへん」だの「やっぱり特別やねん」だのと、情熱的かつまっすぐに私を誘った。その様は南米ハーフの彼の浅黒い肌やくるくるとカールした豊かな髪、そして大きな薄茶色の瞳によく似合っていた。私は男の手元のグラスの酒が結露する間もなく体内にするすると飲み込まれていくのを見ながら「この男のこういう所が好きだったなあ」と思い出した。そして同時に、もう私たちは完結している、と思った。

「貴方は貴方で幸せになって」と私が言った日からあの男とは会っていない。それでも私はCLINIQUEの香水を嗅ぐ度に何度でもあの男に会う。その度に男はぴったりと肩を寄せ、私の名を呼び、いたずらっ子のように笑う。

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