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遺言はずっと褪せない愛だということ
ご飯の量は「ふつうよりちょっと少なめ」がお決まりなわたしが、今日は大盛りを完食した。
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「今夜が山場かもしれない」。
その言葉を耳にして、始発の新幹線で会いに行くと決めた翌朝、父方の祖父は亡くなってしまった。
日々の生活が忙しくてなかなか地元に帰れず(帰れなかったというより、孫に会うことよりもお酒を飲むことを好む祖父だったから、わざわざ会いに行くこともしなかったのかもしれない)、とにかく久しく祖父には会っていなかった。
最後に交わした言葉も思い出せなかった。
急ぐ理由が無くなり時間を午後にずらした新幹線の中、「もっと会いにいけば良かった」「もっとお話しすれば良かった」と、思いのほか人並みな気持ちが次々と浮かんでは尽きなかった。
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四十九日には、長らくお付き合いがあるお寺さんを呼んで読経と説法をいただく。
お経はひたすら足の痺ればかりに気を取られてしまったけれど、説法はそれが気にならないほどには好きだった。
大学でほんの少しだけかじった哲学みたいに、お題をひとつ貰ってじっくり時間を掛けて咀嚼して、やっと自分のものに出来る感覚がある。
説法は「遺言」についてだった。
わたしの中に祖父の遺言は無かったから、胸がちくりとした。でも、それもすぐに消えた。
遺言とは必ずしも最後の言葉ではなくて、「故人が遺してくれた言葉」なんですよ
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帰りの新幹線の中、壊れものを触るみたいに大切に、頭の中のアルバムからひとつひとつの思い出を辿って、祖父が遺してくれたものを探していた。
何よりもお酒が好き。テレビが好き。
あ、仕事場に行ったとき、自動車のリペアが終わって車体の下から出てくる姿が少し格好よかったな。
仕事と畑以外ではほとんど外出しないのに、わたしが風邪を引いた日にはわざわざ車を走らせて、イチゴを持って来てくれたことがあった。インターホンを押さずにドアを無言でドンドン叩くものだから、最初は怖くて息を潜めていたな。
口数こそ少ない人だったけれど、家に行った日は、毎回ありったけの食べものをかき集めて「たんとおあがりください」と言ってくれていたっけ。
その一言には「元気に育って欲しい」という願いがあったのではないだろうか…幼少からずっと少食だったので、もしかしたら心配させていたのかもしれないな…。
そんなことを、またぼんやり思い返してみては、サラダを1品追加してみたり、白飯をひとすくい多くしてみたりしている今日このごろ。
もうこの世には居ないけれど、確かに遺してくれたものに、わたしは生かされているのだと思う。
大盛りのご飯を完食できた今日は、祖父もきっと喜んでくれているんだろうなと、思わず笑みがこぼれた。
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ときどき一緒に写真を撮りに行く、だいふくだるまさんの #愛について語ること に参加してみようと思います。
愛のかたち、色々あるなぁと思う。
そして、それが本当に美しい。
読んでくれてありがとうございました。
それでは、またきっと。
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