誰かが見てくれているということ
最近あまりにも文章がまとまっていない気がして、そっと投稿するようなことが数日続いている。Xに連携して、「書きました〜!」と言うのを少し躊躇っていた。
それでもいつも通り読んでくれている人はいて、誰かに見てもらえているというのは嬉しいことだなぁと改めて思った。
上手くまとまらないけど、溜め込んでおくには…というようなものを自分ひとりで持っておくのってあまり健康的ではない。
そういえば、毎日自分の気持ちを書いて、誰かに見てもらうということを中学生の時にもやっていた。
連絡帳みたいなものに、毎日日記を書いて提出することになっていた。中学校1.2年生の時の担任の先生がとってもマメな人で、毎日必ず一言コメントを書いて返してくれた。
大人になって見返すと、書いてあることが子供すぎて、よくこんな文章に真面目にコメントしてくれていたな…と思う。でも、くだらない話に紛れて結構切実なものもあって、今思うと私はあの連絡帳にだけ素直な気持ちを出せていたような気がする。
友達はいるけど壁がある気がして、家族にもなかなか本音が言えなかった。先生が、あの時1番信頼している人だった。
周りから見たら何の問題もないって思われていたんだろうけど、本当はそれなりに悩みだってあった。良い子でいようと必死だったし、悩んでるって知られたくなかったから、外には出さなかったけど。
先生は私の気持ちをわかってくれているとわかっていたから、中学生の間ずっと自分を保てていたような気がする。
誰かが自分のことを見てくれている、気にかけてくれている、本当の気持ちを知ってくれていると思えるのは、やっぱりずっと心強かった。
中学校を卒業してから、この感覚になったことがなかったような気がする。noteを始めたり、この1年ほどでできた新しい繋がりのお陰で、思い出した。
みんな、本音を出せる場を、誰かと共有できる場を、持っているものなんだろうか。誰かが知ってくれているって大きい。みんなにも、私にも、そんな場所があったら良いなと思う。
このことについて考えることも、「私がやること」なのかもしれないな。過去にひとりだと思っていた私と、今ひとりだと思っている誰かを救いにいくこと。
かつて人生の暗黒期でコーチングに出会い、"自分になる"を探求する旅を始めました🛳️いただいたサポートは自分らしい仕事や暮らしを実現するための活動に使用させていただきます。これからも私の等身大の旅を共有していきます✍️