揺らゆら #1 | 小説


湯気を見ていた。
うす白いもやもやが、視界の下から上に向かってゆるやかに立ち昇り、消えていく。わたしは目の前を通り過ぎる湯気をゆっくり視線で追いかけながら、けむりにもよく似たこの湯気に関して、いくつかのことを思った。
いち、ここには空気の流れがある。
に、ここには水分がある。
さん、ここには熱がある。
よん、いちからさんのことが目に見えてわかる。
ご、トマトとにんにくのにおいがする。
ろく、まばたきをすると、湯気のかたちが変わる。

いつか寒い日の動物園で、大きくてくさいゾウのからだから、薄く湯気が立っているのを見たことがあった。ざらざらとした薄灰色の皮膚から放出された熱は、白くてひょろひょろした湯気となって、生まれてすぐに空気のなかに淡雪のように溶けていった。
湯気は空気と混ざり世界と同化する。わたしは呼吸をして、空中に浮かぶ微生物を吸う。吐く。においの粒子を吸う。吐く。湯気が溶けた世界を吸う。
巻き取られる。

「もう、会うのはこれで終わりにしたい」
昼前の混みはじめたカフェの店内で、白い湯気が絡まる熱いパスタをフォークでくるくると器用に巻き取りながら、高井田さんはわたしにそう言った。それと同時に店内のがやがやとした喧騒が耳に戻ってきて、わたしは強制的に、静謐で神秘的な湯気との世界から引き離された。
喉の奥がぐっと詰まった。
「奥さんに知られたんですか」
バレたんですか、というふうには聞けなかった。あまりにもつらかった。
高井田さんは丁寧に巻いたトマトソースのパスタを口に運ぼうとして手を止め、薄黄色と赤色と脂っぽいオレンジ色の混じったそれに、視線を落としながら言った。
「知られてないよ」
思いつく限りの最悪の答えだった。
そうですか、とわたしは言って、まだ湯気がたつスープリゾットを、銀色のスプーンですくって食べはじめた。
トマト味のスープリゾットは、熱々のままわたしの喉と食道を通って胃の中へ、湯気もきっと連れていく。熱いスープから生まれた湯気は、空気に溶けて混じって世界になる。すべてが混ざるわたしのおなかの中で、この最悪な世界も、ゆらゆらと漂っている。


10歳上の高井田さんはわたしが大学生のときのバイト先の社員だった。そのころにはもう高井田さんには奥さんがいたけれど、わたしたちは出会ってすぐに、なにが起きたかよくわからないくらい自然な流れの中で恋をして、気づけばそのまま5年が過ぎていた。そのあいだにわたしは卒論を書いて、就活をして、卒業して、就職して、引越しをして、人生のいろいろなことが、わりと高井田さんの近くで、高井田さんを中心に動いたものだった。今年で26歳になる。
「ごめん、まず素直に思ったことを言ってもいい。別れ話ってさあ、普通、ご飯食べ終わったあとにするもんじゃない? なんで食べはじめる直前にした? 食後にコーヒーでも飲みながら会話が途切れたころに切り出すのが定石では? むしろ前後の気まずさを鑑みてランチタイムは避けるべきじゃない? ご飯がまずくなるでしょうが!」
「おいしかったよ」
「それは良かった!」
友人の深江はぎゅっと握ったこぶしを我が家の机にダンと叩きつけようとして、寸前で止めた。わたしは笑ったが、しかし、深江の鼻に寄った皺は未だ深い。
「いや、良かない、全然。想像するだけで砂の味よ。シェフにも失礼だし、農家さんだって泣いてるわ。丹精込めて作った素材や料理を男と女のセンシティブな別れ話繰り広げられながら食べられるなんて悲しすぎる」
「そ、それは悪いことしたな」
「ちがうでしょ、もー! そうじゃなくて、そこじゃなくて……」
失恋した、というわたしのメッセージを見るなりうちまで飛んできてくれた、深江の情緒が安定しない。彼女がわたしのために怒ってくれているのを、わたしは半分笑いながら受け止める。
「ありがとう。自分より感情が昂ってる人を見ると、逆に落ち着くよね」
「……知られてないよ、なんてひどい。奥さんにバレたって答えてくれた方が、まだマシだったんじゃないの」
「うん、わたしもそう思った」
毛足の長いラグを指先で弄りながら、高井田さんの静かな表情を思い出した。すっと通った鼻筋に、じゃれて指を滑らせるのがいつも好きだった。
深江の言うとおり、たとえば奥さんにわたしの存在がバレて、泣くか怒るか激昂され、それで高井田さんはしおしおとうなだれながら奥さんの方を選んだ、という、かつて何万回も恐れたシナリオのほうが、まだ気持ち的にはいくらかマシだった。
しかし、5年続いたこの関係を、高井田さんがじぶんの意思で、もう続けられないのだと冷静に判断して、冷静にわたしを呼び出し、食事をはじめるその前に、じぶんの言葉で終わらせようとした、という事実のすべてが、わたしにとってあまりにも厳しく、真冬の水のようにつらい現実だった。
終わりを前提としてはじまった正しさのない恋愛だって、終わるときには、それなりにつらいのだ。
「でも深江は、わたしたちが別れて良かったって言うのかと思ってた」
大学からの友人である深江は、わたしの恋愛事情の一から十までを知っているけれど、高井田さんのことに関しては、ずっといい顔をしていなかった。
深江は飲みかけの缶ビールを傾けながら言った。
「友達が不倫相手になってることを、まるっと肯定するのはちがうし、友達の失恋を高みから正当化して励ますのも、ちがうでしょ。それとこれは矛盾しないのよ」
「はー、好き」
深江の肩に横から抱きつき、ハイハイとあしらわれた。わたしはこれまで彼女の正義を、好きだと以外思ったことがない。
「別れる理由は聞かなくてよかったの」
深江の質問に、今度はわたしが鼻に皺を寄せた。
「聞いていいことないもん、絶対。なにを言われたってだめ。なにを言ったってだめなのもわかってたし、これ以上地獄に堕ちたくない」
「その防衛本能があって、どうして5年も愛人するかねえ」
「うっ、痛い! 痛いです!」
けらけら笑っていて楽しかった。
それから二人で身勝手に高井田さんの悪口を言いながらビールを飲んで、深江は明日も仕事だからと終電前に帰った。わたしはそのあとにもう一缶お酒を空けて、お風呂で少し泣き、歯磨きするのを忘れて、朝まで眠った。


失恋のほんとうのつらさは、朝起きたときに襲い来る。昨夜眠りの淵で感じた寂しさなど、目が覚めてこれが現実だと知ったときの絶望感に比べれば、ごくちっぽけなもののように思う。しんとしたこの狭い部屋を無情に冷やす床板が、高井田さんのぶ厚い足に踏まれて軋むことはもう、状態としてあり得ないことになったということを、思い知るたびに痛かった。


/ 次の話



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