揺らゆら #2 | 小説


前の話


夏らしく清涼感のある、さわやかな音楽が街に流れている。行き交う人びとはアスファルトを鳴らし、足早に駅に向かって歩いていく。
街の景色を水色に彩る音の発信源は、道路脇に刺さっている電柱みたいに大きなスピーカーではなくて、わたしの両耳に挿した小さなワイヤレスイヤホンだった。他の人たちの耳には、おそらくわたしが知り得ない、別の音が届いている。街のBGMは、一人ひとりに与えられるのだ。
疲れているときは民族音楽を聴く。ケルトの笛、アイルランドのパイプ、軽快なフィドル。地球のどこかで今このときも、明るい外国人が楽器を奏で、踊り笑っていることを思うと、じめっとした日本の鬱々としたあらゆることが、ばかばかしくなるのだ。ざまみろ日本。わたしはアイルランドにいる。

高井田さんと別れてからどれくらい経ったのか、もう数えていないからわからない。というのは、うそ。今、3ヶ月と4日と19時間が経ったところ。季節はひとつ変わって、色んな服を捨てた。ばかみたいに明るい音楽を爆音で聴きながら、わたしは退職届を仕込んだかばんを抱えて、職場へ向かっていた。
失恋したので会社を辞める、家も引っ越す、ついでに携帯のキャリアも変えると報告したら、深江はゲラゲラ笑っていた。
「わたしあんたのゼロかヒャクかって性格好きだわ」
深江の浮いた声でそう言われたけれど、そんなの当たり前でしょうと思った。ヨンジュウニとかロクジュウゴとかそんな中途半端より、ゼロかヒャクがいいじゃん、絶対。
でも、高井田さんとのことだけは、わたしはゼロにもヒャクにもできなかった。そう思えるのはすべてが終わった今だからであって、恋愛のさなかに埋もれていたときは、ずっとヒャクだと思っていた。愚か、愚か。
新しいスタートを切りたいわけじゃない。なにもやる気が起こらないのだ。ずっとヒャクだと思いこみ、全身全霊をかけて熱い恋をしていたわたしは、それがあっけなく終わって、すっかり疲れてしまった。もうなにもしたくなかった。軽快な音楽だけを部屋に満たして、へたれたベッドに寝転がってばかりいた。
知っている。ゼロもヒャクも、わたしが行けるアイルランドも、この世にはない。


別れて1ヶ月はほんとうになにもせず、外にも出ず、ひたすらだらだらして過ごした。有給を使いまくり、家に引きこもって腐りかけているわたしを、ぎりぎりのところで引き揚げたのは母だった。堕落で荒れた部屋と、がさがさのわたしを見て、はははと笑った。
母は3日前にわたしが食べたカップめんの汁をいらない布に吸わせながら、聞いてもないのに自分の若いころの話をしていたが、聞いていなかったので、内容は覚えていない。ただわたしは年老いても、生き生きと自分の昔話をする大人にはならないな、と思ったことだけは覚えている。
仕事を辞めてこの部屋は出るつもり、と母にいちおう言ったら、目を丸くされた。
「あら、引っ越すの? うちは美也乃の部屋はもうないわよ」
「え、ないの? わたしの部屋」
帰るつもりはなかったが、帰る場所はあるつもりだったので驚いた。
「この前、猫とネズミ飼いはじめたって言ったでしょ? その子たちの部屋にしちゃった」
「聞いてないよ。猫とネズミを一緒に飼っちゃったの? それは……大丈夫なの?」
「可愛いわよぉ」
そう言ってからからと笑った。小さいころから薄々感じていたことだが、母はどうも、人生を楽しんでいる節がある。
「住むところまだ決まってないならさ、うちの近くの銭湯覚えてる? ほら、花の湯。おじいさんと娘さんがやってる。あそこ、住み込みのバイト募集の張り紙してたわよ。ちょうどいいんじゃない?」
「え、なんて? 銭湯?」
かぽーん。と、脳内で音がした。
母はぎゅっとゴミ袋の口を縛りながら言った。
「なんでもいいのよ。深刻じゃなければ、なんでも。なにをやったっていいし、なにもしなくたっていい。そりゃ生きてれば誰かに怒られたり、自分を省みることもたまにはあるかもしれないけど、それすら趣味の範疇ね。母さんが思いつく限りいやな人生は、暗くてくさい部屋で眉間にシワ寄せながら、自分に不似合いな明るい音楽を聴き続けることだわね」
この母、娘にひどいことを言う。わたしは枕に顔を埋め、ぐう、と短く鳴いた。


別れて4ヶ月と12日と22時間が経ったとき、わたしは音楽アプリのサブスクリプションを解約して、花の湯を訪れた。いつのまにか夏の盛りは通り過ぎ、終わりかけのひまわりが、それでも凛と立っていた。


 / 続きます

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