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「目が大きいね」←なんて返そ

日本には基本的に日本人しかいない。

バスに乗っても
カフェに行っても
国内旅行をしても

基本的に日本人しかいない。

私が住んでいる神戸では
割と外国人と出会う確率が高い。

そういうとき
私は心の中で
「あ、外国人だ」
と反射的に思う。
(個人的に海外に興味があるから、そういうことも関係しているのかもしれないけど!)

それくらい
今まで生きてきて
ほとんど日本人以外に出会ったことがない。

たぶんこれが
身の回りに多国籍の人がいる環境だったならば

「あ、外国人だ」なんて
思うこともないのだろう。

それくらい
日常の”当たり前”は
私たちの考え、発言に影響を与えているんだな。

話は変わるけど、
最近バスで隣に座ったおばさまと会話をしていて、
目が合った時に
「目おっきい!!すんごいおっきいわね!」
と言われた。
(どういう意図で言っているのかはわからない)

そう
何を隠そう私は目が大きい。
ついでに睫毛は長い。

これまで
それについて
あれこれ言ってもらうことが
たくさんあった。

だから
私の”外見”に関して
何か言われることには慣れているんだけど、
毎度思うんだ。

「なんて反応したらよさそ?」

そもそも
なぜ私は外見について
言ってもらうことが多いんだろう。

振り返ってみれば、
カナダへ行った時のこと。

バスに乗っている時や道を歩いていると
small talkが始まる。(海外あるある)

日本人と答えると
「ハーフだと思った」
と必ず驚かれた。

そうか
私の顔は
ハーフ顔なのか。
純日本人だけど。

つまり
たぶん
日本にいると少々目立つのか。
そうなのか、ふうん、へえ、ほお。

私が外国人を見て
「あ、外国人だ」
と思うのと同じようなことか。

なんとなく納得したけど、
一つ納得いかないことがある。

それは

人の見た目について指摘すること。

「メイクかわいいね!」
とか
「服がクールだね!」
とか

そういう明らかな褒め言葉はいいと思うんだ!

でもさ

目が大きいね
睫毛長いね
肌白いね
足細いね

これってどういう意図でいっているんだろう?

わざわざ相手に伝えていると言うことは
たぶん褒め言葉として言っている。

でも

これって褒め言葉なのかな?

私は違うと思ってる。

だってこれらを仮に”褒め言葉”として捉えたとしよう。

そしたらさ
その逆にあるものってどうなるん?

目が小さいね
睫毛短いね
肌黒いね
足が細くないね

これらは一瞬にしてネガティブなものになるよね。

大きい↔︎小さい
太い↔︎細い
白い↔︎黒い

これは事実としてあるもの。

だけど、
そこに意味(比較)を加えてしまうと
どちらか一方をポジティブに、
もう片方をネガティブに捉えたものになってしまう。

だから私は見た目について何か言われた時、
反応に困るんだ。

褒め言葉だと受け取ったあとで、
素直に喜べない自分がいる。

だって
「目が大きくてよかった」
だなんて思わないから。

自分のことは好きだけど、
それは
「目が大きいから」
「睫毛が長いから」
という条件付きのものではないから。

「目が大きくて良い」

その反義語的なものは
「目が小さいのは良くない」
じゃない?

そんなこと私はちっとも思っていない。


当たり前の話だけど
見た目は人それぞれ違う。

日本にいると
”日本人”ばかりだから、

肌の色も
髪の色も
髪質も
体型も(身長、骨格などなど)

もっと言えば
文化も
習慣も。

すごく大きな違いって、ないのかもしれない。
多少はあるよ、きっと。

でも海外の国々を見渡したときに
これらに多様性があるのは一目瞭然だよね。

すごく大きな違いのないことが
当たり前になっている日本。

そこにある日常の当たり前が
いつの間にか、
気づかない間に、
偏った価値観になっていることがあるんだよね。

それが悪いという意味ではなくてね。
事実としてそういうことがあるよねっていう。

でも
その偏った価値観を元にする発言は
時に誰かを傷つけることがあるんだ。

本人が無自覚であったとしても。

「じゃあなんも発言できないわ〜
 もうめんどくさ〜」

って感じる人もいると思う。

でもさ
もしかしたら
自分が持っている価値観に
自分が一番苦しんでいるかもしれないよ。

例えば、
今回のことで言えば

【目が大きい=ポジティブな意味】

と捉えていたとする。

そうなると逆に

【目が小さい=ネガティブ】

と捉えていることになるよね。

それによって

「自分は目が小さいから可愛くない」
「目が小さい自分が嫌い」

って自分を嫌う要因ができる。

他にも

【足が細い=綺麗、美しい】

という基準を持っていたとする。

だとすると

【足が細くない人は綺麗じゃない、美しくない】

っていう偏った美の基準を持つようになる。

それによって
過剰なダイエットをしたり
自分の身体をいじめることに繋がるかも。

偏った価値観を持つことで、
それを“正しいこと”と思い込んでしまう。

そしてその“正しいこと”に当てはまらないものを
否定するようになる。

そうなると、
ありのままの自分を受け入れられなくなり、
自分自身を苦しめることに繋がってしまうんだよね。

私は結局、何を言いたいかと言うと

発言するのはしょうがない!と思う。

だって
その人を変えることはできないから。

変えられるのは自分自身。

自分自身を変化させ、
それを行動に移すことが
変化を起こす一歩だと思ってる✨

「目が大きいね」
「足が細いね」
とか
身体に関することを言われた時、
もっと言えば

外側から“ジャッジメント”を受けた時、

【自分はどう捉えるか】が大切だと思うの。

「そっか、目が大きいことって良いことなんだあ!」
とそのまま受け入れる?

↑これは自分軸(自分基準)ではなく
 外軸(他人基準)になっているよね。

それとも

それをそのまま真に受けずに
一度立ち止まってみて
【これってどういうことだろー?】と
ちょっと自分と対話してみる?

・周りがこうだから
・社会ではこう言われているから
・みんながこう言うから

じゃなくて、

・本当にこれって褒め言葉なのかな?
・そもそもどうしてそれが“良いこと”として
 扱われているのかな?
・私ははどう思う?

自分自身に問いかけてみる。

そして

褒めてくれたことに対しては
素直に
「ありがとう。」
でいいと思うんだ。

その上で
自分自身から返ってきた“こたえ”を
大切にしたらいいと思う✨

私は
どんな自分も好き。
【目が大きいから良い】
っていうジャッジメントは受け入れない。
どんな姿であれ、大切なのは心。
容姿に優劣をつけることを私はしない。

って
自分からこたえが返ってきたよ💫
だから
わたしはこの考え、在り方を大切にしてる。

どんなに自分の考えを知っていても、
その在り方をしていないと
結局周りに振り回されていることになるからね✨

どんな人といても
自分自身から返ってきた在り方を大切にする。
そこはブレない軸を持つ。

これが大切なポイントだと思う🤝

私たちは
外の世界の物事に振り回されたり
それがすべてだと思い込んでしまう時があるけれど、

本当に大切なことはいつだって
自分自身が知っていると思うんだ。

だから
外の物事に傷付いたり
一喜一憂する必要は全くない。

必ずなにか引っ掛かるものがある時は、
自分自身と向き合う合図だと思う。

周りを変える
周りに怒る
周りに悲しむ

じゃなくて

【自分と向き合う】
ってことを大切にしたいな✨

そして向き合った先で
見つかったこたえを軸に
自分の人生を生きていこう!💫

koto🦄♥️🎀














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