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ナウシカのこと


こんにちは、広野です。

先の宣戦布告どおり昨日のことを書きます。

金曜日、父と食事をする予定だった。
父は単身赴任で、東京に住んでいる。

以前は大学生だった妹と二人暮らしをしていたのだが、妹は卒業と共に実家へ戻ったため、今父は一人だ。

地元にいた頃は、特別仲が良かったわけではないが、名古屋、静岡、東京と家族が離れたところで暮らすようになってからは頻繁に連絡を取るようになり、よく食事をしたり出掛けたりするようになった。

父は春先に負った怪我がなかなか治らず、コロナ自粛の影響もあり、6月まで完全リモートで仕事をしていた。東京都が一時規制緩和をしてからは、父の様子見で2週間に一度ほど食事をしていた。

先週、諸般の都合で父が単発帰省をした。その際に私の頼まれものを実家から持ってきてくれた。それを受け取るという名目で、父と食事する予定だったが、父の仕事の都合が悪く、昨日になって別日に振替することになった。

実は、父から連絡が来た時点で私は出掛ける支度を整えていた。

普段の出不精の広野だったら、化粧を終えたあとでもきっとプレステ4の電源を点けて部屋着に着替えたであろうけど、昨日はどうしてもやりたいことがあった。

「ナウシカが観たい。」

数日前にも記した通り、このコロナ戦渦の中、劇場に行くことをかなり躊躇っていた。つい先日も劇場でのクラスターが発生し、ワイドショーやニュースは増え続ける感染者に対して、あれやこれや言及し倒している。

半年以上もコロナの話題で持ち切りだ。終わりのない自粛、感染対策ノイローゼ、経済的困窮、国民の状況を推し量ることができない政治家たち。もうこれ以上の抑圧は不可能だ。

実際、私も例外ではなく、転居と離職、帰省ができないことや同棲生活がかなりストレスフルで、度重なる腹痛や低気圧による頭痛、リンパ系の不具合を起こしている。限界だ。

ましてや今公開中のジブリ作品は今後また劇場公開があるかも解らない。死ぬまでにまた劇場で観れるとは限らないのだ。

結局マスクと除菌を徹底して、家を出ることとした。

幸い雨が降っていたので、人との距離感を保つことができる。行きがけに70センチのビニール傘を買った。高かったが、一番大きなものを買った。

行ったら、劇場選びの良さと人が少ない時間をチョイスしていたことが幸いし、20名弱しかいなかった。しかも結構広いスクリーンで、縦に上手くバラけた配置で、来て安心した。いや、めちゃくちゃビビってたけど、周り殆どおらんからマスクちゃんとしてれば大丈夫だ幸運、、、。


精神的に落ち着いたせいか、すっかり映画に集中できた。

以前も書いた通り、広野の実家にはナウシカのVHSがあり、昔から何度も観ている。『風の谷のナウシカ』は広野が生まれる10年前に上映された。

金曜ロードショーで何度も放映された。ジブリの先駆けである『風の谷のナウシカ』は、世界観やキャラクター設定が万人に愛された宮崎駿の代表作品だ。

実は、私がナウシカを観るのは、10年ぶりくらいだ。幼い頃は、幾度も観ていたが、近年はなかなか観る機会がなかった。

最近ジブリを観ようと思うと、もののけ姫やハウル、ボニョが多い気がする。ナウシカは、題材的に人がたくさん亡くなるし、姫ひとりで他国や軍と向き合う。ナウシカに覆いかぶさる責任を自己投影してしまうことがあり、社会人になってからは精神的に疲弊した私は、なかなか手を伸ばすことができなかった。

しかし、劇場で観るのなら『風の谷のナウシカ』だと思っていた。私が本来なら味わうことのできない生まれる以前の上映当時を体験できるんだ。まるで、タイムトラベルのような。そんな機会は滅多にない。


暗転して、映画が始まる。
私はじっとスクリーンを観た。

ジブリ作品の導入。
ブルーバッグにトトロ、ジブリ・スタジオの文字が浮き上がる。

もう眼が潤んだ。情緒がぶっ壊れているので。

「あぁ、また、ジブリ作品が観られるなんて。」とまだナウシカが始まってないのに感無量だった。

冒頭、ナウシカが王蟲の抜け殻の上で、降り積もる胞子を全身に受け、眺めるシーンがある。

このシーンが、美しすぎてまた目が潤んだ。

このあとのナウシカがメーヴェに乗り、青く澄んだ空を飛び回るシーンで、幼少の記憶が溢れ出してきて、震えた。


私はナウシカになりたかった。

腐海や虫を表面的に捉えず、全貌を捉え理解しようとする懐の深さ。

動物や仲間を愛し、敵までも労る慈しみの心。

ひとりよく考え、学び、知ろうとする意欲。

現状を覆す為の方法を模索し、奔走する直向きな姿勢。

ナウシカの感性を含め、彼女のすべてに憧れを抱いた。

わたしも、風の谷やペジテの民と同じくナウシカに魅入っていた。

彼女の人となりは人心を動かす。カリスマ性というのとはまた違う気がする。彼女は”姫君”そのものなのだ。


そういうノスタルジーに震えた。鼻の奥が熱くなった。

昔はよくわかっていなかったが、ナウシカはよく「風を読む」ことに対して、風の谷の民から称賛されている。
昔は、それは風に愛されているからだと思っていたけれど、きっとそれだけではなくて、自然を愛し、紐解こうとする熱意や知見から得たノウハウだ。

ほかにも、空の異変や違和感にいち早く気が付くのは、爺さんたちや戦歴のある軍人ではない。いつもナウシカだ。それは日頃から虫や天候、風の動向をつぶさに観察している経験値に由来しているのだ。

その感覚があるから、ナウシカは脅威から一点の光に人々を導くことができる。
大人になってからナウシカに感じる尊敬は、ナウシカの姫としての麗らかさではなく、地球や社会に貢献するという素直な意欲と継続的研究努力だった。


だから、ナウシカは自然に、人に愛される。

ナウシカは導くことができる。


絶望的な状況であっても、考えることを止めず、働きかけ続けるというのは、とても万人にできることではない。だからこそ、私はナウシカのそういうところに潜在的に憧れていた。自立した思考力の強く、発想力に富んだ人になりたかった。


ユパが旅をする理由も同様社会貢献的要素が強い。昔は旅をする理由に着目したことはなかったけれど、ユパ自身も腐海や人々の生活、戦争に見えないところで向き合っている。旅路ではきっと、他国の者や動物を救済している。幼い広野は、剣技だけじゃなくて、その見えない信頼や天性の性格に惚れていたんだな。

少し話が変わりますけど、昔から日本の皇族の方がなんであんなに慕われているのかわからなかったけれど、慰問や国政だけでなく、自然研究に注力されている方が多いですね。今の上皇様も、ハゼの研究で有名ですし(最近も新発見されてましたね)、よく植樹の政務をされていらっしゃいました。

意欲的な社会貢献には、本当に感銘を受ける。そして、人心を動かす。

そんなこともちらっと思いました。


エンドで、流砂の底に置き忘れたゴーグルのそばから一本の芽が生えています。

勝手な自己解釈ですけど、あれはきっとナウシカの腐海のバイオサークルに気付くことができた喜びの純粋な涙から生まれたものだと思っています。

枯れた巨木の根本ですから、あれはチコの実から発芽したのかな。

アスベルがナウシカのロジックを理解したことは、文明の好転だ。その象徴が、共に分け合って食したチコの実が腐海の底で発芽したことだったのではないですかね。

あ〜、素敵だ。


ナウシカは、もののけ姫と根本の題材が似ているように感じる。

ナウシカも、もののけ姫も自然共生と戦争がメインとなったストーリー展開だ。出てくる人物も、違うコミニティのものばかり。それぞれの言い分や文化や生活がある。そして、最後はできごとを踏まえ、共生を意識した新しい生活を、各々の居場所で始める。

人物像や世界観こそ全く違うものの、メッセージとしては共通したものを感じる。

先にナウシカのエンドについて話したけれど、もののけ姫との共通点はエンドにもある。

もののけ姫のエンドは、山が緑を取り戻す中にコダマが1体、こちらを見て、首を鳴らす。

これも一度、デイダラボッチが白紙化した山に、人間が共生を理解したことにより自然を取り戻しつつあるということの表れだ。

自然となんとか向き合うことが出来た人間に対して、シシガミが直向きに生きろと言っているようだ。シシガミはもとは神という概念で、信仰なのだから、山自体だ。獅子としての姿は失っても、山として生き続ける。

シシガミは、人を過ちを犯すが、悪行を真摯に受け止め、良い未来へ変更できる知性を持つ者として認め、人々に生きていくことを求めているのだろう。


直向きに、意欲的に、生きる。

実現するのはむずかしいし、エネルギーが要るけれど、これがあらゆる苦難と業を持つ人間を救済する術なのかもしれない。



もののけ姫も観たい~、ナウシカももう一回観たいな~。



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