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[続き②:覚悟のようなもの]


この記事の続きです↓



どんな過去と、想いを持ってるか、これまで2回に分けて話してきたのだけど
続いて手段の話をしようと思う。
これまたくっっっっっっs とても長いので←
おひまなときにでも。



これまで私は様々な仕事をしてきた。

10代の頃はインテリア雑貨店とアパレル販売員、
20代は美容室の受付から始まり、Webカタログの撮影、
市役所の税務課、総合商社の受付、
そして医療機関の医療事務、経営戦略、広報。

こう並べるとなんてまとまりのない…と思うのだけど
とにかく色んな経験がしたかった。

というよりかは自分の中にある常識や偏りをことごとく壊したかった。





私の両親はどちらもグラフィックデザイナーだった。
今でこそ2人とも70歳を過ぎ、その職からはとっくに離れているけど
当時美大生だった2人は学生結婚で一緒になった。

結婚後、姉である第一子を授かるまでの約10数年は
母も第一線で活躍し、主にファッションや美容ブランドの広告業界にいて東京を文字通り駆け回ってたし、
父は広告業界で働いたのちに独立して自分の会社を持っていた。

今自分が大人になり、様々な視点で2人の仕事のあり方を見つめ、
どんなことを成し遂げてきたかと、納得なり誇りを持つことはできるけど、

昔の私はそうではなかった。




お金に苦労したからである。




側から見たらそうは見えなかったと思うし、
なにをもってお金に苦労したと言えるのかになるのだけど

私が生まれた1991年からはバブル崩壊と言われ、
世の中の景気がグンと落ちた。

それに伴い自営業だった父の会社の経営や
デザイン業界にも大きな変化が現れ、
事実としてとにかく家計が冷えていった。


それまでは確かに父の仕事の景気は良くて
別荘を建てたり
外車が好きで何台も持っていたり
外食といえば美味しい鰻にステーキにと選ぶことができた。

やがてゆるやかにも大きく変わる時代に、
経営がひっ迫していく事実に、
真正面から向き合っているとは思えない父の動向に
(お金のかかる趣味を辞めることはせず毎週末のように泊まりがけで出掛けていたり、外車を手放せなかったり)

現実を見る母の鬱憤は溜まり、
家の中ではお金に関するやり取り、言い合い、喧嘩が増えた。

きっとその時代はサラリーマン家庭にはサラリーマン家庭なりの苦労もあっただろうけど、
毎月安定した給与が振り込まれ、大きな収入の変化がなくとも喧嘩のない家庭がすごく羨ましく思えたし、
家に外車が停まってるだけで「お金持ち」「社長令嬢」と揶揄されることがすごく苦痛だった。


そんな、なだらかにお金に困窮していき
ギスギスした空気に包まれていく家庭の中で、
直接的に何か我慢を強いられたことは恐らく一度もなかったけど、
当時小学生だった私は誰に言われずとも親に気を遣い、遠慮し、
欲しいもの、学校で流行ってるもの、行きたい場所なんかをねだることができなくなった。

家族でディズニーランド、新しい筆箱、流行りの匂い付き消しゴム、サン宝石、エンジェルブルーなどなど…(懐っっ)
クラスで話題に出てくるたびに、「望んではいけない何か」のような気がしてそっと心を閉じた。

卒業式の時に古着ではない新しい服を買ってもらっただけで
なんだか申し訳ない、恥ずかしい、嬉しい気持ちが入り混じったことをよく覚えている。(立川の伊勢丹でアニエスベーのYシャツを買ってもらった)


そんな家庭環境で、私が思ったことといえば



「普通がいい」。



年に数回、別荘に遊びにいく事がなくても

外車でお迎えにきてもらえなくても

ふかふかの鰻を食べることができなくてもいいから


両親が仲良く、安定した暮らしがしたい。



今でこそないものねだりだとよく分かるけど
当時は心の底から思っていた。


結局、親が親戚中に頼み込んで学費を捻出してくれて
上の姉と兄と同じ私立の中学校、高校に通うことができたのだけど

正直、もう私にお金を使わなくていいから
普通の学校でいいから
顔色をのぞく事なく、安心して家に居たい。

お金に困ってる親の姿をもう見たくない。


それが純粋な気持ちだった。


前述の通りこれはないものねだりだし、
この状況がいかに恵まれていたか、そして親の苦労のおかげで今の私があるのだという事はよく分かる。

ただ、父が身の回りの物、たとえば店頭に並ぶ椅子、新聞の広告、道ゆく先にある看板、私が修学旅行先で一生懸命選んで買ってきた土産物の箸など、
ありとあらゆるものに向ける
「美しい」
「美しくない」
というジャッジメントに対して(父はデザイナー視点で物事を視る癖があり全てのカタチあるものに対して何かしら思う事があったようです)


「美しさ」なんてどうでもいいから
普通の暮らしをさせてくれよ。


なんて思ったりもしていた。

本気でそう思っていた。

美しさやデザインがある前に
当たり前のような暮らし、なんでもない暮らし、
こだわりなんてなくていいから「普通」でいい。


時代は景気低迷、
尖ったものや挑戦は求められず、
デザイン業界も「みんなが求めるもの」、「大量消費」優先。


だけど
”みんなが良い”と言うものを
”つまらない”と言い、

”こうあるべき”という形に
ことごとく染まらない父。


こだわっていた。
尖っていた。
芯が強かった。
時代を受け入れなかった。
父さえ変われば。
人に合わせることができたならば。



自分の仕事の在り方にこだわり、
変わっていく時代についていくこともなく、

最終的に倒産した父の会社。


金銭的な援助はもちろん、住む場所が無くなり
学業を諦めざるを得なくなった私はさらに

普通に生きよう。


という気持ちが強くなった。


もうこれは本当に、そもそも何が普通で
何が普通じゃないかの線引きはほとほと難しく
なんならそんなのは”ない”のだろうけどね、

昔からよく人に「変わってるね」と言われてきた私は

まずはそう言われない自分を目指し、


自分に備わる「人と違うところ」をことごとくなめして、
社会に馴染もうとした。

父や母の遺伝子を感じるような
「こだわりの強い」部分は無いものとして

「変わってる」と言われるような行動はしないように

毎日同じ時間に起きて当たり前のように仕事に行き、
みんなと同じ生活リズムで給料を得た。

求められる事をただ頑張った。

自分の中にある無意識の常識を壊すように、
今まで生きてきた環境ゆえの偏りを壊すように、

社会人として、あるべき形に必死についていき
自立した生活を送り
色んな職業で、色んなスキルを身につけて、
色んな業種で評価されながら、
対外的に認められながら、
流行にのってみたり、
人に合わせてみたり、

そうこうしているうちにいつのまにか
「人から見て変わってる人」な、
ベーシックな自分のシンプルさが消えていって、
その対価として、「バランスの良い人間」を得られたような気がする。



バランスが良い。


それは私がなりたかった人間像だった。


親の生き方とは違う、
偏りのない人間。



それでいいじゃんね。

なりたかったのならば。

それでいいじゃんね、

それで生きやすいのならば。



でも結論から言うと、それでは大変生きにくかった。



そもそも毎日のルーティーン作業が大の苦手だし、
そもそも朝起きることがすこぶる苦手だし、
誰かに決められたことをこなす作業が苦手だし、
関わる物事に対してアイディアが次から次へと湧いてきちゃうし、
人が良いと思ったものに「良い」とあまり思えないのが本音だし、
なんならみんなが持ってるなら「要らない」とまで思ってしまうくせものだし、
直感やひらめきが爆発的な原動力になることもあるし、
結果を出すなら"自分流"で向かっていきたいし、
人とは違う時間軸、ペースもすごく大事だった。


簡単に言うと、10年弱の社会人経験は
全身全霊の「ないものねだり」であり

「自分らしさ」と究極に"向き合わないこと"に向き合ってきたともいえる。


だんだんと、そういう在り方を頑張ることに疲れたり、
前の記事でも話したように
頑張ることに無理が出てきたり、
その結果”立ち止まることが許されない気がしてしまう”ような感覚があって。


そんな風に全身で受けた体感の末、
たどり着いた考え方が前の記事の通り

あるがままで良い。

ありのままで良い。

なんだけど、

それを受け入れて行動していくと

私の感性を信じてくれる人がいる

ということに気がついた。



振り返れば、なのだけど
経歴にある美容室の「受付」として働いたときも、
気づけば私のカメラセンスや、スタイリングを高く評価され、
撮影のディレクションを任されたりヘアカタログや冊子を作ったりと制作物を任される事が増えたり、

市役所の「税務課」として入った仕事のときも、
仕事の合間に私が描いた、天然な同僚を題材にした「きょうの磯谷さん」というコミカルな漫画が課内・課外で流行ってキャラクターのハンカチを作るまでに至ったり←

転勤族の夫の生活に合わせたスキルをと思って入った医療機関の「医療事務」の仕事も
気がつけば診察カードやパンフレット、手術の説明書・同意書から治療内容の動画制作、webサイト作成など制作物全般を任されるようになったりし、

関わるものや企業をより良いものにしようと
または魅力を最大限に引き出そうと
意識せずとも全力になれば自然とたどり着く「伝えること」が
この今までの遍歴につながるのだけど


たとえ避けてきて
「デザイン」という言葉に括られなくとも
滲み出てたんだな、とも思うし

私の感性を信じて評価してくれる人がたくさんいたのだと思う。

そして、

ひとつひとつの職業に向き合ってきて思う事は、

どんな職種でも、【人に伝えること】というのは
すごく、すごく大切だということ。


どれだけ良いサービスであっても、
どれだけ質の高い商品であっても、
どれだけ価値の高い大義名分があっても、
伝わらないと意味がない。
誰にも響かない。
(ちょっと極論的な言い方になってしまうけれど)


その【人に伝えること】の一つの方法が
「デザイン」というものなんだなと思った。


ひとえにデザインといっても色んな解釈があるとは思うけど


少なくとも私がたどり着いた解釈は

物事の根底的なもの、本質的なものを
あえて形にしたり形容させて視覚化することや、
ありすぎる情報や前提を
削って大切なものだけを残したりして
人の心にアプローチする手段であり、

大衆向けに大量消費を促すためではなく、
届けたい人に届けるために、デザインがあるのだと思う。


そして、時には社会へのアンチテーゼにもなりうる力を持つものでもあると思う。




私の制作物が好き と言ってくれたクライアントさん、
私の感性が好き と言ってくれる人、
私のセンスを活かしたほうが良いよと懲りずに伝え続けてくれる友人、そして夫。



他者からは評価され続けているも、
自分自身では気づかないふりをしてきた
"私らしさ"という在り方は
やっとここにたどり着いた。

奇しくも、いや運命的にかもしれないけど、
両親と同じ感性に辿り着いた。


そして自分自身の20代を目一杯使って体験した
世の中の見かた、選択のしかた。



みんな同じだから失敗はない。


流行ってるから、価値がある。



綺麗だから、正しい。


話題だから、満足できる。




それは本質的ではないということ。


消費の在り方を、自分の行動の在り方を、
なにかに流されていて、それを繰り返していて、
そこに本当の満足や、本当の意味での自己納得はあるのか?


自分の軸や想いなくして、
ものを、時間を、人を、自分を
本当に大切にすることができるのか?



私はそう思うのです。



私はそれに気づいてから、この先はそういう感性を持つ人と生きていきたいと思ったし、
そういう感性の自分で生きていきたいと思ったのです。



昭和に尖った感性を持って戦ってきた父と母、
平成の景気の冷え込み、消費の低下、安牌を求めての”みんな同じ感”。
そして令和。現在。


いびつなものほど手がかかるし、

変わってるからこそ愛着が湧くし、

他にないものだから価値をつけられる。



なんだ。

いびつでもいいじゃん。


便利じゃなくても、簡単じゃなくてもいいじゃん。



やってやろうじゃん。


父の、母の、リベンジしてやろうじゃん。



私の幼い頃の苦しさに、リベンジしてやろうじゃん。


たとえ綺麗じゃなくても、
万人受けしなくても、
見たい世界つくったらいいじゃん。


自分が欲しいカタチをつくったらいいじゃん。



そんな風に思ったんです。


ねえ、待って。ここまでで4900文字。

えっ、

ここまで読んでくれたってこと?


本当にすごいねあなた・・・・
私あなたのこと一生大事にするね・・・・・・←




で、こういう自覚と、覚悟を持った今、
すっっっごく生きやすくなったのと、
私の感性を信じてくれる人との出会いや
それを信頼した上でのデザインの仕事がとても舞い込んでくる。

舞い込んでくるというと受け身な感じがすると思うけど
実際ありがたいことに
私らしくいられる関わり方で、
デザインやビジュアルブランディングの
お仕事をご一緒にする方が増えてきた。

2年半後に私が作りたいというカタチにも、
自分が欲しい世界にも
絶対的に伝える力が大切であり、
そこで届けたい人に届けられる人になりたいという想いがあるから

今、十分にデザイン業の経験と、自覚を積めるよう精進中というわけです。

(インスタではそういう活動もちょこちょこUPしていくのであたたかい目で見守ってもらえると嬉しいです)


あえて言います。

決してデザイナーとして生きていく。わけではありません。

それはその職業の人を舐めてるわけでも
否定しているわけではなく。


ただ、私は私の中で
「デザイン」を受け入れて生きていく。

そしてその上で
「デザイン」をひとつの手段として真正面から向き合って使って生きていく。

そして成したいことを成し遂げていく。


それが私のいうリベンジです。


世の中を変えるとなんかは豪語しないけど、

見てろよ な気持ちはある。 ←




私の感性でリベンジしていきます。


これが2つめの覚悟です。


これからは伝えることを諦めない自分でいたい。


なので今後も感じることや、思うことなどなど細かく綴っていきたいと思います。


もうすでに長いの極みで大丈夫?と心配しつつ、

最後にここだけの話。←


夫であるおまめさんが
結婚式に私に問うた誓いの言葉。
(人前式だから自由に決めて良い)




「その美しい感性が見つける驚きや感動を共有し、ふたりの人生に彩りを与えてくれることを誓いますか」



でした。



(おまめぇぇぇぇぇぇぇえええええええん)






[覚悟みたいなもの 

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