見出し画像

すばらしい日々《3》

私たちはただ右と左の脚を交互に出して漕いでいく。それは単純だけれど気持ちの良いことだった。
松原通を東へ進み鴨川を越える。松原橋を吹き抜ける風は冷たいけれど、どこかに春の気配を隠していた。ユニコーン後期の民生を真似たのだという、みどりの毛先がたっぷりとしたボブが揺れている。あと一週間が過ぎ四月になれば、京都は人で溢れる。静かな街はやがてくるその日を待ち望んでいるようだった。

「そろそろ左に曲がらないと!」

大きな声で言ったそばからみどりは急に左へハンドルを切った。

「ちょっと!」

私もなんとかそれに続いて、幽霊子育飴というなにやら物騒な看板を掲げた店の角を左に曲がった。

「待ってその先行き止まりじゃない」

細い路地の先には建仁寺の境内が見える。寺の中を自転車で走るわけにはいかないだろう。
「降りたら大丈夫だって」
みどりは路地の奥まで自転車を飛ばしたかと思うと、サッとサドルから腰を下ろして歩き始めた。迷いのない行動に私はついていくしかない。私たちは自転車を押して境内の石畳を歩いた。どっしりとした木々の木陰がみどりの背中をさらさらと流れていく。

みどりが突然立ち止まったのはそのときだった。
「お茶の葉だ!」
大きな声をあげて境内に青々と茂った生垣をまじまじと見つめる。
「よく分かったね」
私には校庭の隅に繁っている葉と同じようにしか見えない。
「お茶摘みするから」
「すごい。家に茶畑があるの?」
「いや、叔父さんちがお茶農家なんだ。長期休みになったらお父さんとお姉ちゃんと妹と手伝いに行くの」

私はそこでみどりに姉と妹がいることを初めて知った。そういえばみどりから家族の話を聞いたことはあまりない。そのことを伝えるとみどりは何も言わず、石畳の先をじっと見つめた。それから
「いこいこ。早く行かないと時間無くなるよ」
そう言って再び自転車を押しはじめた。

建仁寺を抜けた先にある花見小路は美しく整備されていて、両側に立派なお茶屋建築が並ぶ。
「京都来たって感じ」
もう一年も京都に住んでいるというのにみどりは目を輝かせている。

さらに北へ行くとスナックやバーの並ぶ通りに入った。ビルの横に連なる目立ちたがりな蛍光色の看板は光を落とし、路肩には煙草の捨て殻やビールの空き缶が打ち捨てられている。街自体が夜の抜け殻のようであった。
みどりは興味深そうにきょろきょろしながらペースを落とし自転車を漕いでいた。それからやっぱり鴨川を走りたいと言いだし、私たちは西へ戻り鴨川の土手に降りた。あたたかい時期にはカップルが等間隔に並んでいるが、三月末の京都はまだ冷える。人はまばらだった。鴨川を渡る風にのってみどりの声が流れてくる。

「くるみ、あったかくなったらまた来よう。一回等間隔に混じってみたいんだ。そこでギター弾こう! 大声で歌ってやるんだ!」

私は笑いながらいいよ! と叫んだ。
三条を過ぎると観光客よりも地元民というような雰囲気の人が増えてくる。犬の散歩をするおばさん、ランニングをする大学生、キャッチボールをする親子。たとえ今日さよならしたって、約束しなくてもまた明日会える人たちがたくさんいる。それはとても穏やかな光景だった。しばらくすると川と川の合流地点に行きついた。

「デルタだ!」

みどりは叫ぶ。三角州では人々が休み、対岸からそこにつながった亀や千鳥の飛び石を子どもやカップルが渡っている。きらめく水面は宝石のようだった。みどりはあそこへ行こうと言うが、そうすると時間が無くなる。結局、後で昼ご飯をここで食べようということになった。
みどりはぐんぐん走る。私はそれについていく。私たちの間には絶えず同じ距離があった。それは私にとってちょうどいい距離だった。

***

「ここじゃないかも」
北稜高校に着くなりみどりは言った。
「うそ」
「ホームページで校舎見たときはそうだろうなって思ったんだけど、校庭の位置はこんな風じゃなかった」

私は誇張でなく膝から崩れ落ちた。ここじゃなかったとしたら次に目指すのは西都高校だ。現在地からは七キロほどある。ここまで来た道のりと同じような距離をまた行くことになるのだ。
落ち込む私をまあ、まあ、とみどりはなだめる。

「パンでも買ってデルタで食べよう」

みどりがそう提案したとき、どこかからピアノの音が聞こえてきた。私たちは耳を澄ませる。体育館の方から流れてくるのは、パッフェルベルのカノンだった。
私も昔弾いたことがある。けれど今聴いているものとは違う。こっちの編曲の方がずっと難しい。一人で演奏しているとは思えないぐらいの厚みがある。音の色の付け方も抜群だ。しかし何度も途中で止まってしまう。こんなにも上手いのに。これはきっと――。

「緊張してるんだろうね」

私より先にみどりは言った。口元は笑っていたけれど目は笑っていない。それからそうするのが当たり前だというように体育館の方へ歩き出した。

「ちょっと」

制止しようとしてもみどりは止まらない。やはり私はついていくしかないのだ。

みどりは体育館の重い扉を身体いっぱい使って開ける。するとそこにはグランドピアノを弾くすらりと背の高い女の子がいた。舞台の上の彼女の長い髪はピアノと同化してしまうのではないかというぐらい黒く、肩を使うたびさらさらと流れる。映画から切り取られたかのような光景だった。

彼女は私たちに気づいていないのか、一心に演奏を続けている。しかし右手パートが左手へと移るとき、何かに引っ張られたかのように手がとまってしまう。よく見ると指が震えている。緊張する中でのカノンなんて最悪だ。
鍵盤から手を下ろし、彼女は舞台の上から私たちの方を見つめた。

「笑ってるんでしょ」

驚いた。気づいていたのか。

「笑ってないよ」
みどりはグラスを弾いたような澄んだ声で真っ直ぐに言い放った。
「一生懸命弾いてるのに笑うわけないじゃん」

すると女の子は私たちを睨みつけるように強い瞳で見据えたかと思うと、やがて目元を擦りはじめた。どうやら泣いているらしい。鼻をすする音だけが海のような体育館に響く。みどりは舞台へ向かってスタスタと歩いていく。そして壇上に手を突きよじ登った。紺色のジャンパースカートの裾から白く細い脚が覗く。

「弾いてみてよ」

彼女の前に立ちみどりは言う。彼女はブレザーの裾をぎゅっと掴んで俯いてからピアノの前に座った。そしてふたたびカノンを奏で始める。
私はその様子を舞台下から見上げていた。まるで礼儀正しい観客のように、静かな視線をずっと送り続けた。

中盤に差し掛かったところでまた指が止まる。

「止まったらだめ」
みどりは彼女の後ろに回り指を重ねた。
「止まったらお終いだよ」

それだけ告げてからそっと指を離した。彼女は手を握りしめてからゆっくりと開く。何かを確認するように。そして最後まで弾ききった。

「ありがとう」

彼女はそこではじめて目元を緩めた。

みどりはパチパチと拍手しにっこり笑ったかと思うと、突然舞台から飛び降りた。それからはしゃぐ犬のように体育館の真ん中へ駆けて、

「すごい! 誰もいない体育館ってこんなに広いんだね」

と叫び、ばたりと寝転んだ。それを見た女の子も舞台から飛び降り、みどりの隣に寝転ぶ。切れ長の瞳がクールな印象を与えるが突然現れた私たちにも動じないし、みどりと対等に渡りあっているあたり、根はみどりと似ているんじゃないかなと思った。

「くるみも来なよ」

誰かに見つからないかと恐れながらも私はみどりの隣に寝転んだ。春風がガタガタと窓を揺さぶる。巨大なドームにちっぽけな私たち三人は守られていた。
そこでやっと私たちは互いの名前を交換した。女の子はあさひと名乗った。彼女はあがり症を克服するために、誰も使用しない日を狙ってこの広い体育館でひたすらカノンを弾いているのだという。

「努力家なんだね」

私が言うとあさひは照れたように目を伏せた。みどりは「すごいよ」と言ってから、

「途中から始めるのはとても難しいんだ。だからミスしても止まらずに弾く練習をすること。あとフレーズで区切って適当なとこから始めてみる。どこからでも始められるように。頭じゃなくて身体で記憶するんだ」
とアドバイスを付け加えた。ピアノは弾けないと言っていたみどりが。
「あとさ」
そう言って上半身を起こす。
「大切な誰かがいない? どんだけ駄目になっても、めちゃくちゃな失敗しても受けとめてくれる人」
「……いるかも」
「だったら大丈夫だよ。その人のために頑張ればいい。自分のためじゃない方が頑張れたりするんだよ」
みどりは羽のようにやさしげな瞳で言った。
「よし、行こう、くるみ。お腹空いたよ」

私たちはあさひにお気に入りのパン屋を教えてもらい北稜高校を出発した。

みどりはあさひに向かっていつものようにダブルピースをする。私もそれにならってピースしようとした。
ふとそのとき、いつだったか、以前も同じことをしようとしたのを思い出した。私も民生の真似を、いや、みどりの真似をしたかったのだ。もちろんそのピースはみどりに向けた。しかしみどりは他の誰かに呼ばれて別の方を向いてしまった。それでも私はダブルピースをし続けたが、次第に腕が痛くなってやめてしまった。みどりが私の方に向き直ったのはその後だった。それから何も知らないみどりは私の元にやってきておしゃべりをはじめた。地続きになった彼女の人生から私のダブルピースだけが切り取られて時は進んでいく。私のダブルピースはなかったものとして、みどりはこれから生きていくのだ。私はそのとき、出来事は知覚されなければなかったことと同じという誰かの言葉を思い出した。そして、本当に、その通りだと思った。
私は上げようとした手をひっこめてハンドルを握る。それからみどりに続いて地面を蹴った。

読んでいただきありがとうございました。サポートしてくださると本づくりが一歩進みます。