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すばらしい日々《5》

喫茶セキのドアノブにはクローズの札がかけてあった。店内は暗く、明かりの灯ったカウンターが劇場の舞台のようだった。そこで関さんがまるでなにかの役割を演じるように静かにカップを拭いている。彼女は私たちの姿を認めると「おかえり」と微笑んだ。私たちの表情から察したのか、旅がどうだったかは訊かれなかった。
「関さん、ちょっとだけ休ませてほしい。くるみと話したいんだ」
みどりの一言に心臓が跳ね上がる。

「ええよ」

きっとこの雰囲気を察しているだろうに、関さんは調子を変えないままなんでもないことのようにテーブル席の明かりを点け、「喉乾いたやろ」とオレンジジュースをサーブしてくれた。それからカウンターの奥へと引っ込んでいった。
関さんの背中を見送ると、みどりは淡々としゃべりはじめた。

「くるみの言う通り。私はお姉ちゃんになりたいけどなれなかったんだよ」
「わざわざ実家出てこの高校に来たのも、お姉ちゃんがそうだったから。あさひにしたアドバイスだって全部お姉ちゃんの受け売りなんだよ」

悲しみや悔しさや、そういったものはどこにも滲んでいない。黒い瞳の向こうには凪いだ海が見えるようだった。

「今はもうお姉ちゃんのことは吹っ切れたと思ってた。でもさ、くるみに言われて気付いた。私のこの状態って、民生になろうとし続ける限り、お姉ちゃんを吹っ切ることもできないってことなんだよね。だからくるみの言ったことは正しいよ。結局、私は民生にもなれなかったけど」

初めて言葉の端に悲しみが滲んだ。その声色で、どうしてだか私の方が泣きそうになってしまった。私は勝手だ。ただただ正しいだけの、ナイフのような言葉を投げたのは私なのに。

「でも私はみどりのこと民生みたいだって思ってたよ」

勝手な私は勝手なことをつぶやいた。勝手だろうがなんだろうが、それが素直な気持ちだった。

「嘘だよ。だってくるみ最近言ってくれないじゃん。私が曲作っても、ギター弾いても『それいいね』って」

私はそう言われて初めて気が付いた。
こうなる前から、私はとっくにみどりに嫉妬していたのだ。いいものはいいって言わないといけないって、お互いのことを認めないと離れ離れになってしまうって、私は誰よりも知っていたはずなのに。

「でもね私、疑ってたんだ。くるみに『いいね』って言われるたび、本当にそう思ってくれてるのかなあって。だから『いいね』って言われなくなって、少しほっとした。自信作! なんて言って披露してるけどさ、本当は自信ないんだよ。結局自分が不安定だから、確かなものにすがりたくなるんだろうね。――ごめんね。言わなくてもいいことだよね。でも言わないといけないって思った」

みどりは目を伏せ、まだ口のつけられていないオレンジジュースに手を添える。暖房が効いてきたのか、グラスはぐっしょりと汗をかいている。

「くるみは素直に言ってくれたでしょ。『みどりは民生じゃなくてお姉さんになりたいんだ』って。くるみは優しいから、そういうこと分かってても言わないでいてくれるじゃん。でも言ってくれた。だから私も素直になろうって思ったんだ。くるみの前ではそのままの自分でいようと思った」

あの言葉をそんな風に受け取っていたなんて。口を開けば涙まで一緒に零れそうだったけれど堪えた。私に泣く権利はない。そして、私も本当のことを言わなくてはいけない。

「違うんだよ」

声が震える。ああ、格好悪い。でもいい。これが私なんだ。そのままの自分を私もみどりに見てもらわないといけない。

「『いいね』って言わなかったのは、みどりが羨ましかったからなんだ。みどりはギターもピアノも上手いし、自由で、一人でどこへでも歩いていける。だから私は寂しくて、寂しいくせに悔しくて……」

その先が出てこない。それでもみどりは黙って待っていてくれた。あたたかな空気が店内を満たしていく。指先が温もったところで、私はようやくその言葉を口にすることができた。

「ごめんね」

みどりはその言葉を聞くなり目の端を下げ、
「そっかあ、そうだったんだ」
と、ふにゃりと笑った。いつものみどりだった。
「私たち似た者同士だね。全然素直じゃなかった。余裕もないし、格好悪い」
「うん」
「民生になるのは難しいなあ」
「そうだね」
本当にそうだ。私たちは格好悪い。でも格好悪いことをさらけだしあえる。それだけでもう充分だ。
私たちは笑いあって、オレンジジュースに口をつけた。

ドアのチャイムが高らかに鳴ったのはそのときだった。
「いらっしゃい」
大学生と思われる女の人二人が現れ、カウンターの奥から関さんが上半身を覗かせる。
「あれ、先客がいてはる」

端正な顔立ちをした背の高い女の人はそう言って、私たちをてっぺんからつま先まで観察する。対する背の低い女の人はその隣で、ごめんなあ営業時間終わったのに、と関さんに謝っている。ひと段落したところで関さんは私たちに説明を添えてくれた。

「自転車貸してくれてた近所のお姉さんやで。二人ともうちらとおんなじ高校やったんよ」
「そうなんですか」
「軽音楽部つくったのも二人」
「ええ、もっと早く言ってよ」
みどりは席から飛びあがって二人に向かい礼儀正しく挨拶をする。
「清水みどりです」
みどりの名前を聞くなり、二人は顔を見合わせた。
「清水……」

眉間にしわを寄せた二人はほんの少しの沈黙の後、そうかなあ、いや絶対そうやって、などと言い合っている。すると背が高い方の先輩が神妙な顔つきでみどりに尋ねた。

「みどりちゃんってお姉さんいてはる? みどりちゃんと同じ高校通ったりしてなかった?」
「はい、通ってました。去年卒業したんですけど」
「名前はなんていうん?」
「わかばです。清水わかば」
その名前を聞くなり、二人は大きな声をあげた。背が低い方の先輩が興奮気味に話しはじめる。
「うちら一年の時、清水さんと同じクラスやったんよ。文化祭でピアノ弾かはって、えらい上手やった」
背の高い先輩が付け加える。
「そうそう、サックスも上手かったし。でもどっちかっていうと努力家タイプって感じ? なのに自信なくてさあ、くよくよしてはんの」
「それ本当ですか」
みどりが目をまるくする。
「うん。周りが自分のこと高く評価するから、それがプレッシャーやったって。音楽も迷いながらやってたみたい。だから私が喝を入れたったことがある」
「え、殴ったん?」
関さんが眉をひそめる。
「そんなわけないやろ」

背の高い先輩は関さんの頭をグーで挟む。痛い、痛いと関さんが叫び二人のじゃれあう声が小さな店内に響く。その光景を見つめながら、そっかあ、と言うみどりの目にはうっすらと涙が浮かんでいた。

そのとき再びチャイムがカラカラと控えめに鳴った。
「あ、了介やっと来た」
そこには同じく大学生ぐらいであろう男の人が立っていた。優しげな顔立ちをしたその人は先輩二人と仲良く話しはじめる。
私たちの姿に気づくと、了介と呼ばれたその人はきちんとお辞儀をして挨拶してくれた。彼もこの近所に住んでいて、みんなは幼馴染なのだという。私たちも挨拶し、ここに来た経緯を話した。いつか民生が弾き語りをした高校を探していること、そのため関さんにお世話になったこと、結局その高校は見つけられなかったこと。すると彼は腕を組み少し考え込んでから口を開いた。

「それって僕の通ってた高校な気がするなあ」
「え」
「いや、すごい年の離れた先輩がいてるんやけどなあ。その人が言うてた気がするんや。高校に奥田民生が来て、校庭で一緒に歌ったんやって」
私たちは顔を見合わせた。
「それ、どこの高校ですか」
みどりが前のめりで尋ねる。
「鷺沢高校」
私たちは互いを見つめあい頷いてから、オレンジジュースを一気に飲み干して席を立った。

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