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すばらしい日々《4》

私たちは南に下り出町柳駅近くのパン屋に立ち寄った。そこはいかにも街のパン屋という質素な佇まいで、パン自体も素朴なものが多かった。種類は豊富、しかもどれも安価で、あさひがお気に入りだというのもよく分かった。
ふとたっぷりのクリームにみかんが埋め込まれたフルーツサンドが目に留まる。瑞々しいみかんに惹かれて手を伸ばそうとすると

「くるみパンだって! くるみのパンだよ」
みどりがそう言って、焦げ茶のぽってりとしたそれを私のトレイに置いた。
「クリームチーズ入りもあるんだ。私はこれにしようかな。半分こしようよ、くるみ」

チーズは嫌いなのに。みどりのトレイにのせられたクリームチーズ入りのくるみパンを見つめる。結局、私はフルーツサンドを買わずに店を出た。

「店員さんに聞いたんだけどさ、二階にリスニングルームがあるんだって! 今時すごいよね。また来ようよ」
会計を済ませたみどりは目を輝かせている。
「うん」
「ほんとに思ってる?」
つい生返事になってしまう。私は先ほどのあさひとみどりのやりとりを思い出していた。

みどりがピアノを弾けないというのは嘘だ。

あれはたしか京都で初雪が観測された寒い冬の日だった。部室へ向かっていると聴き覚えのある曲が聴こえてきた。それはユニコーンの代表曲の一つ「スターな男」のピアノソロだった。姿を見なくても誰が弾いているかなんてすぐ分かった。私は扉の小さな窓からそれを盗み見る。とんでもない速さで正確に繰りだされる複雑なメロディ。叩きつけるようなタッチなのに運びは滑らかで、華麗だった。最後、鍵盤を右から左へ両手で撫でつけて、そのままみどりは高らかにピースをした。天を仰ぎ指先を見つめるみどりは、私が見たことのないみどりだった。私はしばらくそこに立ち尽くすしかなかった。

そうだ。みどりは好きなことにはまっすぐだ。それが何になるとか、役に立つかどうかとかそんなこと考えない。そこに誰もいなくても、高々とダブルピースをする。憧れだけでどこへでも行ってしまう。私はいつか振り落とされる。
「私たちは一緒だ」そう言われてもそう思えなくなったのはあの時からだったように思う。私はみどりの前でピアノを弾くのが怖くなった。

私たちは河合橋を渡ってデルタへ向かった。東からの風がバタバタと髪を叩きつける。飛ばされてしまうのではないかと思うほどの風速だ。それでもみどりはスカートを包み込むようにして川べりに体育座りをする。私たちはビニール袋からまんまるなくるみパンを取りだす。私たちが手にしているのは同じくるみパンだ。見た目は変わらない。けれど違う。私の方には何も入っていない。よいしょ、とみどりはクリームチーズ入りのくるみパンを半分に割り、私に差し出した。私もくるみパンの片割れを差し出す。みどりは美味しい、美味しい、と言いながらにこにことそれを食んでいる。その横顔を素直に見ることができなくて、私はとうとうその言葉を口にした。

「ピアノ、なんで弾けないって言うの」

それは私たちの関係を変えてしまう一言だった。
耳元で風がごうごうと鳴っている。
もしこの一言が風に流されてしまったとしても、それでいいと思った。届いてほしい、届いてほしくない。その間で気持ちが激しくせめぎあっている。

「お姉ちゃんがいるんだ」
声は届いてしまったようだった。
「すごく上手いんだ、ピアノ」
微笑んだままみどりは言う。
「でね、小さい頃、発表会を観にいったんだ。そしたら私、そこで踊ったらしいんだよね。お姉ちゃんの演奏に合わせて。なんかもう私が主役で、お姉ちゃんが伴奏者みたいだったって」
あっはっはと大声で笑う。
「その時の記憶は全然ないんだけど、みんなにすごく笑われたって事実だけうっすらと残ってて。あと親にすごく怒られたことも」
少し声が低くなる。暴れる髪束を耳にかけながらみどりは続けた。
「お姉ちゃんは天才だった。私も当然のようにピアノを習わされたわけだけど、そんな風にはなれなかった。それにね、上手くいかないたびに笑われて、怒られてる気がして、ピアノの前に座るたび緊張したんだ。あさひみたいにね。実際上手くならなかったし」

そんなことはない。みどりの腕前は確かだった。私なんかよりも全然。嘘をついてまで隠すことだろうか。本当は私のピアノを聴いて心の中で笑っていたんじゃないだろうか。
人は比べてしまう生き物だ。上を見て敵わないと思ったときは「諦めた」と公言し同じ舞台から降りれば、日常のふとした隙間から飛び込んでくる鋭利な言葉に傷つかずにすむし、下を見れば自分はまだ大丈夫だと安堵することができる。みどりはそうやって私を笑ってお姉さんに追いつけない自分を肯定しようとしていたのだ――。

胸の中に仄暗いなにかが差し込んでくる。一方で、自由そうに見えるみどりも自分の属する集合体の中で自分を計ってしまうような人間だったことに安堵した。
――なんて私は嫌な奴なんだ。際限なく溢れだしてくるじっとりとした気持ちを抑えようとパンを咀嚼するのに集中した。くるみの香ばしさが口の中で溶け、生ぬるい甘さが舌の上に広がっていく。

「だから辞めた。民生のこと好きになったのもそれぐらいだったかな。これからはピアノじゃなくてギターを弾こうって思ったんだ」
みどりは早口で続ける。
「それに民生は前に出たがらなかった。スターになろうとしなかった。それがいいって思った」

でもそれが原因でユニコーンは求心力を失い解散したのだ。各々がやりたいことをやろうとした末の分裂。メロディメーカーである民生と阿部ちゃんの対立。
どんどん重くなっていく空気を断ち切るようにみどりは民生の好きなところをしゃべり続けている。けれどみどりはまだ肝心なことを言っていない。みどりは――。

「一曲歌おうかな」

その声が私の思考を遮った。みどりの指先から夕方五時のチャイムのようなメロディが弾かれる。楽しい時間の終わりを告げる寂しげなイントロ。なんでこのタイミングでこの曲なんだろう。それはユニコーンの「すばらしい日々」だった。

一九九三年九月二十一日、その日のオールナイトニッポンでユニコーンは解散を告げた。解散ライブは行われず、その前に行われた沖縄公演が結果的に解散ライブとなった。そこで最後に演奏されたのがこの曲だ。
そのライブの最中、阿部ちゃんは「お願いだ」と言い、ステージから降りて客席へ分け入ったという。そして客席からステージに向かって「どうだ羨ましいだろう」と叫んだそうだ。

私は雑誌でしか読んだことのないその光景を想像する。阿部ちゃんから見た、燦燦と輝くステージに立つ民生はどんな風だったんだろう。民生から見た、客席の海に投げ出された阿部ちゃんはどんな風だったんだろう。羨ましいのは、どっちだったんだろう。

ギターの音を、みどりの声を、すごい勢いで風が流していく。それでもみどりは飄々と歌いきりダブルピースをした。私はうまく笑えなかった。

「『君は僕を忘れるからそうすればもうすぐに君に会いに行ける』っていってるけどさ、私、君は僕のこと忘れないと思うんだよね」
みどりはひとり言のように呟く。
「だから僕は君に会いにいけない。お互いのことを忘れられないから、一生会えない。悲しくない? どうして民生はこんな歌詞を書いたんだろう」

みどりはそのまま押し黙り、鴨川の水面が乱反射するのを見つめている。どれぐらいの時間が過ぎただろう。みどりは一向に肝心のそれを私に伝えない。
だったら私が言ってやろうと思った。

「みどりは、民生じゃなくてお姉さんみたいになりたいんじゃないの。今も」

みどりは表情一つ変えないまま、顔を上げた。私は言ってすぐに後悔した。私たちは無言のまま見つめあう。そして私が先に目を逸らした。

「行こう」

みどりはそう言ってスカートの裾を手で払った。

***

私たちは西都高校へ向かって出発した。今出川通をひたすら西へ進む。今出川通は大きな通りでひっきりなしに車が行き交っている。おかげで会話せずに済んだ。南に下がった西大路通も幹線道路だった。そこで私は気づいた。みどりもきっと話したくないのだと。
信号が赤になる。隣に停車したミニバンの重低音が耳を打つ。開いた車窓からは煙草を挟んだ細い指先が覗いている。やがて信号は青になり、ミニバンは苦い匂いを残して去っていき、道にぼたりと落ちた椿がその後をついていくようにころころと転がった。
私はもうこの旅をやめたかった。目的地にたどり着いたところで、この旅はハッピーエンドじゃない。それならもう前へ進みたくはない。でも私たちは右と左を交互に踏み出す。ねじを巻かれた人形のように、私たちはただただ自転車を漕いでいた。

「ここかもしれない」

午後の光を反射する白い校舎の前でみどりは自転車を停車させた。喜ぶべきなのだと思う。けれど私は歌える気がしなかった。それはみどりも同じのはずだ。
しかしみどりはそんな素振りを見せず、許可を取りに行こうと事務室へずんずん進んでいく。その背中を見つめながら思う。これで終わり。やっと終わり。
終わりのはずだった。

「歌うのはええけど、奥田民生が来たなんてそんなん聞いたことあらへんけどなあ」
事務室の奥から出てきた事務員のおじさんは困ったように言った。
「私もう三十年近くここにいてるけど、そんなことなかったで」
すぐそばのデスクで書類とにらめっこしていたおばさんが付け加える。きつい口調が疲れた身体をさらに重くさせた。
「本当ですか」
「うん」

うそお、と言ってみどりはがっくりと肩を落とした。
事務室の壁にかけられた時計を見やる。今ここで引き返さないとみどりの予約した新幹線には間に合わないだろう。

「もう帰ろう。続きは新学期にしようよ」

そんなことを言いつつ、今の、この状態で続きがあるのかなんて分からなかった。そう思うとたまらなく悲しくなった。私はみどりが「この旅を続けよう」そう言ってくれるのを期待していた。矛盾している。長い沈黙の後、みどりは言った。

「そうだね。もう帰ろう」

私は初めてみどりが何かを諦めるところをみた。
私たちは一言もしゃべらないまま喫茶セキに帰った。

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