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坂をくだる

 坂を下るとき、いつだって私は一人だった。

 職員室の明かりを背に校門を出るとそこは夜の海のようで、街灯が灯台みたいに坂道を照らしている。映す影は濃く、あたりには人ひとりいない。そうしたらもう世界は消えてしまって、私は暗闇にたった一人になってしまったのではないかと思う。そして決まって叫びたくなる。「誰か」と。
 イヤフォンを耳にさす。ピアノの音に自分の足音を重ねる。そうやって私は坂を下る。下った先には踏切があって、そこを通過していく快速電車の明かりで私は一人ではなかったことを確認する。
 そして、叫んででも気づいてほしかったのは「誰か」なんているようないないような、そんな曖昧な存在なんかではなく、「先輩」というたった一人の確かな存在だったということに気づかされるのだ。

 *

 7時38分、宇治発奈良行き。最後なのだから早く行こうと紗枝には言われたけれど、私はいつもの電車に乗りたかった。春のひかりをのせて電車は宇治川を越えていく。改札を抜け、駅の階段を下り線路沿いに歩いていくと、いつものように紗枝が踏切のそばに立っていた。
「美都」
 紗枝はポニーテールをなびかせて、少し低い声で私の名前を呼ぶ。そして私たちは坂道を上りはじめる。

 坂を上るときはいつだって二人だった。
 入学式で隣り合わせになったときから私たちはいつも一緒で、卒業を迎える今日まで毎朝坂のふもとで待ち合わせた。
「もう最後やな」
「うん」
 返事したもののあまり実感はない。揺れる木漏れ日を追うように坂を上る。その先には鳥居が見える。この坂は神社までの参道で、両側には松の古木が並んでいる。木々は影をつくり、晴れていてもそこは雨の後のようで、水分を多く含んだ空気の柔らかさが私は好きだった。
「菜々子先輩、送別会きはるんやろ」
 突然の問いに言葉が詰まる。
「ちゃんと言うんやで」
 畳み掛けるように言われてついたじろいでしまう。
「うん……」
「なにその返事。また去年みたいに泣かれても知らへんで」
「分かってる。ちゃんと言うよ」
 坂の上、白い校舎、美術室の四角い窓を見上げながらこたえた。

 *

 菜々子先輩は美術部の一つ上の先輩だった。同じ画塾にも通っていて、別々に指導を受けていたけれど、先生が先輩のことを褒めるのをよく聞いていた。
 肩で切りそろえた黒い髪、アクリル絵の具で汚れた細い指。カンバスにむかう横顔が好きだった。私は先輩みたいになりたかった。
 一度だけ、先輩と一緒に帰ったことがある。
「誰かと一緒に帰るのははじめてかも」
「私もです」
 人はいない。音もない。木々の呼吸さえ聞こえてきそうな夜だった。
「ほんと静かだよね」
「世界に一人きりになった気がしません?」
「たしかに」
「だから私、叫びたくなるんです。誰かーって」
「ええ?」
 先輩は笑った。それから俯いて言った。
「私は、すごく落ち着くけどな。このまま一人だったらって思う」
 先輩に画塾を辞めると言われたのは改札をくぐったときだった。
「元々選択肢の一つとして通ってただけだから。そろそろ受験勉強しないと」
 あんなに上手いのにもったいない。そう言いたかったけれど、もったいないかどうかは先輩が決めることだと思った。
 私たちは別々のホームに降りていった。やがてやってきたきみどり色の電車はベンチに座っていた先輩を隠して、そのまま連れ去っていってしまった。私は電車の明かりが闇に消えていくのをじっと見つめていた。それからいつか読んだ、銀河鉄道の旅の途中で消えてしまったカムパネルラと置き去りにされたジョバンニのことを思い出していた。

 その日から私はとにかく描いた。絵を描くことを選択肢の一つにしてしまえるほど、私は器用には生きられない。私には描くことしかできない。だからせめて絵だけは先輩みたいに上手くなりたいと思った。

 *

 卒業式が終わり、別れを惜しむクラスメイトたちの騒めきが教室を満たしている。私もそろそろ美術室へ行かないといけない。
「じゃあ4時に駅集合ね」
「うん」
「いってらっしゃい」
 紗枝が手を握る。何も言わずじっと私の目を見つめる。去年の今日、先輩に何も言えず泣いたときもそうだった。紗枝は肝心なときは何も言わない。

 美術室に着くとすでに先輩たちがいた。その中に菜々子先輩もいた。
「あ、美都ちゃん」
「春から美大生なんやって」
 先輩たちが口々に言って、菜々子先輩ははじめて私の方を見た。目があったけれど何も言われなかった。
 先輩と二人きりになれたのは送別会も終わりみんなが解散した後だった。
 今しかないと思った。
「ここから見える景色が好きだった」
 先輩、と呼ぶ声に被せるように菜々子先輩は言った。視線の先には森を切り開いてつくられた家々がある。夕方だというのに屋根を照らすひかりはずいぶん明るい。日が長くなった。
「塾も見えるね」
「はい」
 窓の外を眺めながら先輩は続ける。
「先生、よく美都ちゃんのこと褒めてたよ」
「先輩のこともよく褒めてました」
「嘘や」
「嘘じゃないです」
 つい語気が強くなる。
「ごめん」
 目を伏せて先輩は言った。
「昔言ったやろ。画塾は選択肢の一つだったって。あれ嘘。本当は私も美大行きたかった」
「本当は、美都ちゃんみたいになりたかった」
 それは決定的な一言だった。
 あの頃、私たちはたしかに同じ方向を向いていたのだ。でも今は違う。もう違う。一緒に帰ったあの日、先輩を乗せた電車が消えていく様が頭をよぎった。
 喉元まででていた好きだという言葉は胸の奥に再び押し込まれ、私は何を伝えたいのかよく分からなくなっていた。最後にふさわしい言葉。それを言おうとして焦れば焦るほど頭は真っ白になって、口をついてでてきたのは単純な一言だった。
「先輩、ありがとうございました」
 先輩は窓の外から視線を外し、私を見つめた。
「そんなこと言われたら泣いてまうやん」
 そう言って笑った。私も笑って過ごそうとした。すると視界が透明にぼやけだして俯いたら涙がこぼれそうになった。
 なんで私が泣いてるんだろう。
「約束、あるんやって? 何時?」
「4時です……」
「もう過ぎてるやん。これ貸してあげる。駅に置いといてくれたらええから」
 先輩はポケットから自転車の鍵を取り出す。
「でも」
「ええんよ。いってらっしゃい」
 そう言って渡された自転車の鍵は錆びついていて、それでもさすとカチャリと外れた。跨ぐと足は地面に着かなかった。つま先で蹴りだして、私は春の風をきる。空回りばかりの私は転げ落ちるように坂を下った。
 名前を呼ばれたのはそのときだった。
「美都!」
 坂の途中に紗枝がいた。
「どうしたん。遅いし迎えにきたで」
「先輩に言おうとして……それで……」
 その先を言えずにいる私を紗枝は見守っていたがそれも束の間、しびれをきらして自転車のハンドルを奪った。
「後ろ乗り」
「あかんよ捕まる」
「捕まらへん」
「退学になる」
「ならへん。ていうか私らもう卒業したんやで」
 紗枝は私の手をひいた。
「私らもう何してもええんや」
 そう言って私を後ろに乗せてから力強く蹴りだした。
「菜々子先輩ー!」
 紗枝が叫ぶ。
「ちょっと!」
「ええやん叫び! 菜々子先輩ー! って!」
 そう言って紗枝は笑った。つられて私も笑った。笑いながら泣いた。
 これから先、私に何かが欠けているとしたらそれはきっと先輩だ。私は、欠けた私を抱きしめながら生きていく。そして欠けた私のそばにいてくれる人を大切にしながら生きていくのだ。紗枝の制服をぎゅっと掴んだ。そして私は叫んだ。
「菜々子先輩ー!」
 坂の先の踏切を、きみどり色の電車が通過していった。

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