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普通の幸せ

前にひらパーに行った時に家族連れを見て友人と本当に何気なく
「これが一般的な幸せなんだろうね」
という話になった。

それからずっと考えている“普通の幸せ”

結婚して子どもを産んで温かい家庭を築くこと

それが普通の幸せならば私には到底叶わないんだろう


とても尊敬している先生との会話

「この先彼氏ができてその人と結婚して子ども産んでってなったらその傷隠していくのは無理じゃない?」

「なんで?」

「この人と結婚してこの人との子どもが欲しいなって思ったときに隠せんくなる時が来るやろ?」

その一言が指すものに悪寒が走った。
初めて先生が動物に思えてほんの少しだけ気持ち悪くなった。
そんな自分に嫌気がさした。


誰かを愛して、その人との間に子どもが欲しくなる。
当たり前のことで本能的なものだからどうしようもないと理解はしているつもりだ。
素敵な話だと、そう思いたいと願っている。

知識として理解できることと心から飲み込めることはまた別のことのようだ。

大学生になってそういう赤裸々な話を聞く機会は増えた。
誰かと体を重ね合わせることは自然なことなのだと嫌でも痛感せざるを得なかった。
信じ難いが、そこに恋慕がないことだってあると知ってしまった。


そんな“普通”をわかりたかった。
だからわかろうとした。

長年の付き合いの友人たちに恥を承知で尋ねたことがある。
どうしてそういうことをするのか と
彼彼女は真剣に教えてくれた。
それは一種の愛情表現なのだ と

私が
「人とそういうことができないのならお付き合いするべきじゃないのかな」
と言ったら
「それで付き合えないって言われたら体目的ってことだから違うと思うよ」
と教えてくれてハッとした。

「水和のその願望に答えることも相手の愛だし、逆に水和が相手のしたい気持ちに答えてあげることも愛だと思う」
と言われてこれもハッとした。

「求められな不安になるからそれがなくても愛されてるって思えるなら羨ましい」
女の子勢は求められるからというのが多いらしい。
大学の友人たちもわりと似たような言い方をしていたから。

「できないんじゃなくてしたくないなんだから別にそのままでいいと思う」
そっか、素直な気持ちがしたくないならばそのままでもいいのか


それでも無知な自分が堪らなく怖くなってセクマイさんと繋がるアカウントで不安を綴ったことがある。
その時にとあるFFさんがDMに来てくれて
「無知であることや嫌悪を感じることは当たり前でおかしくないから誰かとお付き合いすることになってもその気持ちは絶対に尊重してね」
と伝えてくれた。
本当に救われた。


あの時の私は本当はまだとぼけたくて、
でもとぼけて確信してしまうことが怖くて、
適当に、小声で
「子どもを産むつもりがなかった」
とだけ返した。
早くこの会話から逃げ出したかった。

高校生の時は嫌ほど着いてきた性教育も大事だとわかっているけれど、聞く度に貧血になっていた。
いつになっても大人になれない自分が本当に嫌いだった。

そんな幼稚なだけの私のことを昔からみんなはピュアだと表現してくれた。

本当はそれも苦手だった。
ピュアと表現されることが嫌なのではなく、幼稚なだけなのに都合よくピュアを演じているようで、なんだか騙しているみたいで申し訳なかったのだ。
そして勝手な話だが、いつかこの「ピュア」という言葉が嘲笑に変わっていく気がして、それも怖かった。
私は、やっぱり“普通”を手に入れたかった。
自分の腕に並ぶ傷跡もそうだ。
無ければ何も考えずに素肌を晒せたのかもしれない。

あれから1年経って、環境も変わって
それでも今の大学の友人たちも
「水ちゃんは純粋だね」
と言って、こんな私をそれが水和だと受け入れてくれている。

他にも中高の友人に同性も好きになることを匂わせたときには
「水和は女の子と付き合ってるの似合う」
「その方がいいのかもね」
と言ってくれたし
「同性だからって結婚できないのはおかしいよ」
と言ってくれた。

大学の友人ひとりにちょびっとだけ相談した時、その子は異性愛と同じように一緒に考えてくれた。
大学の友人全員には言えてないけれど、いつか言えたらいいなと思う。


先日、セクマイさん4人で集まってご飯に行った。
気兼ねなく、あの子がさ〜本当にかわいくてさ〜と言えるのは幸せだった。
やっぱり私は女の子も好きになる。
それは嘘でも逆張りでもない。
セクシュアリティは流動性のあるものだから、変わったっていいのだけれど、この日ようやく自分の気持ちを肯定できた。


ねぇ、先生
私は多分先生の言う未来は迎えないと思う。
あの日、友人と話した“普通の幸せ”はきっと手に入れられない

“普通の幸せ”
それを羨ましいと思わないと言えば嘘になる。
異性のカップルに憧れがないわけではないし、
温かい家庭を見れば素敵だと思う。

きっとそれが先生にとっては最適な幸せだったのだ。
携帯の待ち受けが子どもとふたり並んだ後ろ姿の写真なのも知っているし、夜になれば家にご飯があるからと帰っていく姿も知っている。
でもそれは先生の幸せ
私の幸せではない。

私の幸せはこうして私のあるがままを受け入れてくれる友人と過ごすこと
子どもは育てず、大好きな人とふたりでおだやかに過ごしたい。
「おはよう」と言えて「おかえり」と言えたらそれが幸せだと思う。
体も重ねなくていい。
抱きしめて体温を守れたら私は幸せだ。

勿論、これはまだ齢19の戯言でしかない。
いつか変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。
でも、もうマイノリティのままでも嘆かない。
普通になれなくてもいいじゃない。
人の数だけある幸せ
誰かに自分の幸せを認めてもらえたらそれは嬉しいことだ。
でも認めてもらえないからといって自分の幸せをねじ曲げることはもうしない。

私は私の幸せを見つけるし、
誰かの幸せは全力で受け止めていく。




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