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1年前のあの夏に

1年前、私は高校3年生だった。
子どもで居られる最後の年に、私は思う存分子どもでいた。
何度も声を上げて泣き、何度も無邪気に笑った。


1年前の夏、私は大きな決断をした。
場面緘黙の症状を親に打ち明けることにした。
(当時は緘黙疑いでしかなかった)

大好きで大尊敬する養護教諭や担任であるK先生の「言ったら?」という言葉にはずーっと首を振り続けていた。
それでも、これが伝えられる最後の機会なんじゃないかと気づいて、三者懇談の前日、私は職員室に飛び込んだ。
K先生とあれは言う、これは言わないみたいな打ち合わせをした。

三者懇談当日、私は緊張で何一つ覚えていないが、私を職員室前で待っていた先生が私が来た時に零した「よし」の声に力が入っていたと友人から聞いた。

当たり障りのない進路の話の後、
「そしてもうひとつお話したいのが…」
そんな言葉で始まった病の話。

結論から言えば何も伝わりやしなかった。
「自分で乗り越えていく試練だと思います」
そう言われた。
薄っぺらい綺麗事を並べる母に失望して涙が零れた。
母はそんな私を見ることはなかった(先生から聞いた話)

「水和さんは少し残ってて」
三者懇談終わり先生はそう告げて母を出口まで見送りに行った。
私はその間も面談室で1人涙を流し続けた。
戻ってきた先生は
「泣かんでもええやん」
と言って頭をわしゃわしゃしてくれた。
「ちょっと伝わってなかった」
と泣きじゃくる私に
「ちょっとじゃなくて全然やろ?先生はそのズレもわかってるから」
と言ってくれたことにひどく安心した。

この日、友人も三者懇談で、進路の話が上手くいかず泣いていた。
2人で沢山泣いた。
「6時には学校出るんやで」という先生の言いつけを無視して7時か7時半くらいまで教室に残った。
勉強をする気にはなれず、2人で文化祭で使う学級旗を作った。

私は帰っても家にいる気になれず、地元の友人の誘いに乗って家を飛び出して遊んだ。
ただ公園で話しただけだったけど随分と居心地がよかった。
親が寝てから家に帰った。


次の日、K先生に呼び出された。
K先生と進路指導部に行った。
言われたこと、場所、先生たちの声のトーン
全部を今でも鮮明に覚えている。

進路指導の先生の第一声は「よく調べていますね。貴方が調べている以上の大学はもう出てこないと思います。」だった。
私の評定なら第2志望の大学の指定校推薦を勝ち取ることができるから、面接は配慮をお願いして受けたらどうだ?ということ(第1志望は指定校がなかった)と告げられた。
その中で「今、貴方は自分の状態は理解している。でもそれを周りにアピールすることはできていない。この先、就職等もあるわけですから、その時はまた向こうの人(大学の人)とこうして話していかなくてはいけないことを理解しておいてくださいね」と言われた。

そんなことわかってる。アピールできないから緘黙なんじゃないの?と少し怒りを覚えた。

代わりに話してくれているK先生が私が特別支援コーディネーターの桜先生と対話練習をするなど克服しようとしていることを伝えてくれた。
その中で昨日の三者懇談のことも話題に昇った。
外部のカウンセリング等も本人は考えているが、親の了承が得られず難しそうだと伝えてくれた。

すると進路指導の先生は
「それだけ治そうとしてれば十分です。大事なのは現状を乗り越えようとしてるかですから」
「なんとかしたいとは周りも思いますけどいちばん克服したいのは本人でしょうから」
と言ってくれた。

いつか配慮の話をしに大学を訪問する
ということでお話は終わった。
最後に
「いつかは僕も話せますかね」
とK先生に尋ねているのを聞いて話せたらいいなと思った。

話をしていた応接室から出た。
正直、心はぐちゃぐちゃだった。
友達のいる教室に居られなくて体育館に行った。
2階のギャラリーで声を上げて泣いた。
バスケ部の練習音がそれをかき消してくれた。
初めましての人が「乗り越えたいのは本人」と言ってくれるのに、味方と言うくせに親は「本人の問題」で済ませてしまうのか
吹き荒れた心でそんなことを思った。

仲の良かった先生が
「たまたま3つ残っててお前らの顔が浮かんだから」
とコンビニのクレープをくれた。
普段絶対そんなことしない先生だから面白くて嬉しくてちょっとだけ気持ちが上がった。
(この先生に泣いてるところを見られてしまったかもしれなくてそれ故かなと思ったり思わなかったり)
三者懇談周辺からご飯があまり食べられなくなっていたけれど、この日食べたクレープは美味しかった。

やっぱり家は居心地が悪くてこの日も地元の友人と遊んだ。
普段会えないけれど友人たちの考えが好きで、この人たちとずっと繋がっていたいなと思った。


「家にほとんど帰ってない」
K先生の前でそう零して、呼び出された。
「もっと具体的なこと言わなきゃ伝わらないよ」と言われた。
私はやっぱりそれを渋った。
これ以上頑張っても伝わらなかったら、私と親の関係は本当に取り返しのつかないところへ行ってしまいそうで怖かったから。
「切ってないの?」
そんな話もした。
切ってなかった。
「このままやめときなよ」
多分そんなことを言われた気がする。
「痛いだろうから」
その痛みを求めてしまうんだけどな。
これが多分お昼の話。

夕方、話があって職員室に行った。
この時初めてはっきりと先生に「お前は場面緘黙だと思う」と言われた。
少し話をして教室に行った。
「お前らにと思って」と先生の手には缶ジュースがあった。
話してる間にぬるくなっちゃったかな
そんなことを思った。
4つあったからその内の2個を運んだ。
教室に行く途中も話は続いた。
「ほんまはもっと親を頼りたいんやろ」
とか
「お前と親が上手くいっているようには見えない」
そんなことを言われて
「でもしっかりしなくちゃいけない。弟手かかるし」
と言うと
「それは違うんちゃう?」
と言われた。
そう思うことで保ってきたのに、私の中の何かが音を立てて崩れていった。
まだ明るい外がいやに眩しかった。

みかんと白ぶどうがそれぞれ2個。
私たちは3人。
「余ったの先生が貰うから」
1人はみかん
私は白ぶどう
もう1人は迷ってて
「じゃあみかんにしてよ」
深い訳はないけれど先生とお揃いが飲みたくてそう言った。
そんなことを言うぐらい好きな大人がいてよかったと思った。

次の次の日
文化祭の練習のために隣のクラスの女子が全員集合していた。
ふらっとそこに混ざって過ごした。
ここ数日の憂鬱は嘘のように笑えた。
ダンスを踊るみんなはかわいくて、わちゃわちゃしてて楽しかった。

お盆明け、友人とスタバに行った。
お盆休みをどう過ごしていたのか一切の記憶がない。
でも、この友人とスタバに行く約束を楽しみに頑張って過ごしていたんだと思う。
たまにある息抜きのお陰で息ができていた。
新作は売り切れてたから諦めて、抹茶ティーラテとサンドイッチみたいなやつを食べた。
「次は新作飲もうね」
ひとつ前を向ける約束をした。

次の日、今度は私のクラスの女子が文化祭の練習で集まった。
わちゃわちゃしながら振り入れをした。
立ち位置を決めた。
何故かみんながお気に入りの事故画の画面をこちらに向けて笑っている写真がある。
その写真自体が私のお気に入りだ。

特別支援コーディネーターの桜先生とK先生とお話練習をした。
三者懇談、親のことが中心だった。
「水和ちゃんはやりたいことはしっかりしてる?変える気はない?ならばそれを曲げずに貫くことだよ」
と言われた。
私が強くならなきゃいけなかった。
“親を悪く言うことに罪悪感がある”
と打つと
「わかるよ。私も親のことこんな言うて酷い娘やなと思うけど、そういう気持ちにさせて来てんのが悪いからね。罪悪感も感情やから抱くのは仕方ないけど、不快にさせてきてんのは向こうやから」
と言われてほっとした。


この次の日だ
私が死のうとしたのは
人生で初めて本気で死のうと思った。
ずっとずっと確かに死にたい人生だった。
でもこの時は生きたかった。
まだあの子たちに会っていない
まだあれを食べていない
そんな未練はあったのに、全てに対してやりたかったなという過去形の気持ちを抱くに留まった。
怖かった。
死にたいから死ぬ
じゃなくて
生きたいのに死ぬ
だった。
意味がわからないかもしれない。
自分でも意思に反して動く頭と体が怖かった。
親が寝てからコードを首に巻き付けている自分がいた。
どうしようもできなかった。
死ぬだけの力がなくて、結局泣きながら一日を終えた。
明日は当たり前のようにやってきた。
希望か絶望かはわからなかった。
誰にも話せなかった。


数日後、K先生に
「配慮ってやっぱりずるくない?」
という話をしに行った。
正直、ずっと思っていたし先生にもその欠片はずっと伝わっていた。
「お前は耳が聞こえへん子が筆談してたらずるいと思うのか」
と言われた。
首を振った。
それと同じだということは頭では理解できていたが心が追いつかなかった。
だってずっと自分のせいにされてきたから。
「今は先生が良いって言うから良いんやって思っとき」
根本の理解を諦めた先生はそう言った。

そこからどういう流れかは忘れたけれど、明日先生と両親が再度面談をすることが決まった。
それが不安で堪らなくて帰りたくなくて友人と2人で歩いて帰った。
友人に
「自分の親がそんなんやったら耐えられへんな」
と言われた。
三者懇談で進路の話が上手くいかず泣いていた彼女だ。
あぁ、上手くいってない子にさえもそう言われてしまうのか とまた絶望した。
二人で彼女の最寄り駅まで歩いた。
夜風が涼しくて息がしやすかった。
息が詰まるから帰りたくなかった。

次の日の15時、先生と両親が面談をした。
私はとても一人でいられる精神状態ではなく、友人の教室で一緒に数学を解いた。
頭は何も働かなかった。
面談が終わって、先生は私の元に来てくれた。
「終始穏やかでしたよ」
そう言われて、
まあ人前で荒れる性格ではないからな
と思った。
「水和が言えば病院も行くって言ってくれてはるから言ってみな」
と言われた。
「ほら、頑張れ」
とハイタッチした先生の手は温かかった。

それから2日後、夏休みが終わった。
たくさん泣いた。
たくさん笑った。
友人と先生に支えられて生き延びた。
私は弱かった。
でも生き延びた私は少しだけ強かった。
夏の日差しに照らされた毎日はキラキラしていた、
ムカつくけどあの子や私の涙さえも。

私はこの夏をずっと忘れない。

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