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どうにも憎くてどうにも愛おしいね、人間は

大好きな友人と大好きな先生にご飯に連れて行ってもらった。

先生は当然教育者だし、一緒に行った彼女も大学で教育学を専攻している。
私も教職課程を学んでいる。

別に教育の話をするために行ったわけではないけれど、話の内容が高校生の頃のことばかりだから自然とそういう話になる。

その中で先生が教えてくれた大切なこと

「わからんことはわからんって言うし知らんことは知らんって言う」
「嘘はつかない」
「学んできたことより経験が大事だと思う」
「難しいですよ、なまものを相手にするって言うのは」

論だけが正しいわけではない

教育の勉強は始まったばかりだけれども、少しずつ理論として正しいことを知ったり、自分に起きている事象を調べる中でそう感じる部分もある


例えば自傷行為

先生はやめるように言った。
刃物を取り上げるようなことはされなかったし、明確な約束をしたわけでもないけれど
やめなよと言われ、痛々しいと顔を顰めるそれは医学的に正しいかと言えば違ったと思う。

それでも私は先生を嫌ったことはない。
それは正しさとは違っても先生が私と真摯に向き合ってくれていると感じられたから。
先生の言う“嘘をつかない”ってすごく大切なことだと思う。
きっと本当は当たり前のことであるべきことなんだろうけれど、大人になるつれてどんどん失ってしまうものなんだろうとも思う

先生は知らないことは知らないと言うしわからないことはわからないと言うのも私はよく知っている。
勉強でも進路でもあの子のことでも

「知ったかぶってもしょうがないから」
そう言って、でも知らないわからないで見ないふりをしないで最後まで向き合ってくれる。

だから私は先生の前で素直に弱音を吐くんだと思う。
何より、先生にだけは嘘をつかないんだと思う。

自分のしたことは返ってくる
自分が正直に接すれば相手も正直になってくれる、、
かもしれない

勿論100%返ってくるとは私も思ってない。

でも自分が腹の中をさらけ出さない限り、相手に正直さを求めてはいけないなと思う


あ、これって別に教師と生徒に限った話ではないな。
親と子であってもそうだし、そもそも大人対子どもじゃなくて友達同士、恋人同士でも同じだ。


相手のことを知りたかったら自分を見せるしかない。
相手に正直で居てほしかったら自分も正直になるしかない。
それでも相手が見えなくてそれが苦痛なら、その時は離れるのがお互いのためなのかも

教師だってOLとかサラリーマンみたいに生きていく仕事のひとつで
学校も工場やデパートみたいに働く仕事場のひとつで
だからそんなに一人の人である必要はないよって言う人もいるのかもしれない
でもそこは先生の言う“なまもの”相手だから
自分の向き合い方がダイレクトに相手に伝わるんじゃないだろうか
その事実が酷く恐ろしくて目指すことを辞めてしまいたくなる。
私はそんなできた人間じゃないし
でもその関わり方がどうしても愛おしくて堪らないと感じる時もある。
この表現が適切なのかどうかはわからない。
結局私はどこまでも人間が嫌いで、それでいてどこまでも人間が好きなんだと思う

そんな私にも拾い上げられる声があれば
いつかの私みたいな声なき声をあげて泣く誰かを、救おうなんて傲慢だから、せめて隣でハンカチぐらい差し出せたなら
今の私だってまだひとりじゃ歩けないけれど、たくさんの人のおかげで掴まり立ちぐらいはできるようになったと思う。

私にしかできないことはきっとない。
悲しきかな、つらい経験をして来たら優しくなれるとか夢や希望が叶うとかそんな保証もない。
自分も救えない私が誰かを救えるだなんて思っちゃいない。
そもそも他人を救おうなんて夢物語だと本気で思っている。
それでも自分は支えられてきた。
たくさんのぬくもりで今日まで生きてきた。
そのぬくもりを温度そのまま誰かに渡すことができたなら、
そうして誰かの世界を温められたら、
世界はやさしくなりますか。
きっと、なるよね。

もらったぬくもりを無碍にしない。
次は私が誰かを温めたい。

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