見出し画像

認知症で亡くなった祖父を思い出した日

今日、『百花』を観た。


この作品で私は「初ひとり映画」を果たした訳だが、ソロ活での映画としてなかなか良いチョイスだったように思う。

もし、この作品を誰かと観に行っていたら、観終えたあとに
「なんかよくわからんかったね」
と変に口走ってしまっていたような気がする。

たぶん、観る人によって(経験の違いから)感想が違ってくるタイプの映画だったから、観たあとに感情を共有するには人を選ぶだろうなと感じた。

だから、私自身何も心打たれなかったということではなくて、むしろ自身で考えることが溢れすぎて、それを言葉で他人に伝えるのができない状態だった。

どこか観客に委ねている映画だった。

物語は、認知症が進行する母とその息子の「記憶」を軸にして進んでいくのだが、この”記憶”というのは、単なる事象であるだけではなくて、思い出だったり過去のトラウマだったり、人によって別の形に歪められる、
不安定なものとして描かれていた。

認知症の母にとって、過去の記憶は儚くも美化されたものとして、
息子にとっては、過去の記憶はトラウマの如く思い出される忌むべきものとして。

同じ景色を共有していても、親子であっても、別の捉え方をするから齟齬が生じるんだ、と
改めて考えさせられ、劇中、何度もハッとされた。


加えて印象的だったのが、原田美枝子さん演じる認知症を患う人からみた視点が冒頭から何度も出てくることである。

同じ棚をぐるぐる回って何度も卵パックを買い物カゴに入れる。
手元に傘を持ってるのになぜかずぶ濡れ。
実際には誰もいないのに何かに声をかけている。
さっき行ったばかりのことをやりたいと言う。
知らない誰かの話をいきなりし始める。
・・・

こうした認知症の人特有の行動が、その当事者の視点で描かれているところには、私自身刺さるものがあった。

というのも、私が小学生のとき、いまは亡き祖父が認知症を患っていた頃を思い出したからである。

認知症の人間がどうなってしまうのか間近でみたことがある身として(いまやあまり覚えてはいないけれど)、
ご飯を食べたばかりなのにまた食べようとする、
訳の分からないことに急に怒り始める、人に対して殴りかかろうとする、
トイレの場所がわからなくて廊下で用を足そうとする、
そんな祖父の姿を数年ぶりに思い出した。
そして、中学生になってからテレビなどで認知症に関する番組をみて、
「認知症を患う当事者自身も混乱している」
ということを知ったことも。

病が人格を歪めてしまう
思い出を盗んでいってしまう

そんな恐怖が上映終了後の私に迫ってくると同時に、これからそれにどう立ち向かうか、どう生きてゆくべきか、とひとりぼんやり考えてしまった。



記憶、と言う観点で言うと、
私は最近「他人の記憶に残りたい」ということを常々考えるようになった。

私が生きた証として、
ともに時間を過ごした証として、
私が1人でいる時間に誰かのことを思い出すように、私も誰かに思い出されるような存在でありたい、と最近はそんな考えに囚われている。

これはきっと、私の中で”ある人物”の存在がまだくすぶっているからであり、その人物の人生の一コマに私が少しでもいたんだということを忘れないでいてほしいという願望でもある。

「あの頃、自分への自信と経験の低さから、貴方を気持ち悪いと思ったこともあったけど、ちゃんと私は幸せだったよ。」
そんなことも言えずに終わらせてしまった人。

言えなかった代わりに願望くらいもたせて。
いっしょに過ごした時間、交わした会話を忘れないで。
そしてあわよくば夢に出演させて(?)。





…なんて、本人には伝わる筈もないのだから、
いつかその人との記憶を上回るくらい、幸せな記憶を紡げますように。


とひっそり祈ってみる今日この頃。

この記事が参加している募集

私の作品紹介

休日のすごし方

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?