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日本の教育と珈琲豆は似ているのかもしれない。

「珈琲豆って日本の教育と同じですね」
深く考えずにこんなことを発言しました。

この発言を分析していこうと思ったので、今noteを書いています。
自己分析と言いますか、思考の深掘りという感じです。科学的根拠もなければ、論理的に破綻している部分がありますが、ふわっと読んでいただけると嬉しいです。


さてこの発言はどんな場面で生まれたのかと言いますと


行きつけの喫茶のマスターに、珈琲豆の焙煎について聞いた時です。

珈琲豆は長く焙煎するほど味が似てくると聞きました。
深煎りというものです。長く焙煎すると豆本来の香りや味が失われて行くわけです。

昔は、粗悪な珈琲豆を長く焙煎することもあったと聞きました。

なぜ、そんな珈琲豆と日本の教育が似ていると感じたのでしょう?

僕にとっての日本の教育は、同じ方向に向かう学習だと考えています。
(かといって、海外の教育は一部しか知らない。)
スペシャリストを目指すのではなく、ゼネラリストを目指す学びのスタイル。
提示されたものをやる。それが、日本の教育だと思います。平均的な人材を作る。

そこに共通点を感じました。
同じような人間になる。同じような香りや味になる。
なんだか似てるなって思い、「珈琲豆って日本の教育と同じですね」
と発言しました。


ここからは、この発言を深掘りしていきます。

僕のこれまでの日本の教育はこのような認識です。
子どもの本来の欲を制御し、できない部分を周囲に合わせるために強化し、一般化されない個性が殺されるもの。

その理由が
・道徳教育(深くは書きません。)
・点数評価(能力を数値で評価し、他人と比較せざる得ない状況を作る。順位。)
・教卓に向かう学習スタイル(姿勢を正して、黒板に向かって学ぶスタイルが正しいという固定観念、同じ机椅子に座る等)
・30人学級(教員1人で30人以上の生徒を見る。一人ひとりのニーズを詳しく分析できない状況)

このような現状が、子どもの一人ひとりと向き合えなくなっている原因。
教員数、教員の多忙化、働き方、少子化、日本の財政状況、いろんな課題があるので簡単に解決はできませんが。
※現在の学習指導要領では、主体性が大事にされてきました。


珈琲豆と似ている点、他にもあるなと思います。


主体性を子ども本来の良さ、欲、願いが根底にある行動とすると。

教育において、子どもの主体性をコントロールするのは教員だと思います。
教員次第では、その主体的な部分が大切にできる。


珈琲豆に主体性は無いけど、珈琲豆本来の良さはある。
何より、珈琲豆を活かす焙煎者がいる。

子どもの人格を形成するのに、教員の存在が大きいように
珈琲の味を決めるには、焙煎者の存在が大きい。(深煎りでも違いが生まれる。)

焙煎者の想いによって豆の味が変わる。(珈琲の味が)
お客様に飲んでもらいたい味。店のコンセプトに合わせた味。長くゆったりしてもらうために。香りを強く感じてもらうために。
顧客のニーズや自分の大切にしたいやり方で焙煎する。

子どもも関わる人によって大きく変わる。
教員の専門性、親の専門性、子どもに対する願い等が、子どもを変える。
子どもの本来持っている力を伸ばすような関わりをする方法もあれば、
子どもの弱みを消すことを集中し、一般に近づける方法もある。

教員の数だけ方法は変わる。
しかし、
方法が自由すぎたら困るから、学習指導要領あり、大綱的基準が設けられている。

ゼネラリストを目指した学びが生活するにあたっての最適解かもしれない。
学校の学びが、一斉で同じ方向を向いていても、個人の感じ方は違うし、それ以外の場での人との関わりは違う。個々の違いは必ず生まれることも踏まえておきましょう。


整理していこうなと思います。

何が答えっていものは、時代、人、国、さまざまな社会のあり方で最適解が変わってくる。
異常に多様性という言葉が流行っている現在。
簡単に多様性で完結させるのではなく、多様性と許容ラインを個々が認識し、統一すべきことはルールとして設けることを大事にしなければいけないですね。モラルやマナー、ルール。

まずいと感じる珈琲をうまいと感じる人がいる。
僕が良い人だと思う人が、別の人からは嫌な人かもしれない。

偏見混じりの道徳教育風に言うと
「みんな違ってみんないい(最低限のルールは守ってね)」
という感じでしょう。 

話は逸れましたが、珈琲豆と日本の教育は似ている。

珈琲豆は長く焙煎することで、同じ味に近づく。
日本の教育は、同じようなスタイルで同じことを学ぶため同じような人材ができる。
この点が、似ているんだな。

主語が行ったり来たりしているけど、そういう感じです。
これは珈琲豆に限った話じゃないかもしれないですね。

何より、深煎り珈琲で、豆の独特の香りや味が消えるかもしれないが、微かに残った良さと新たに生まれたコクを繊細に感じる人がいる。
日本人は、深煎り好きが多いとどこかで読みました。
それは、日本人が小さな違いに気づき、限られた情報の中で良さを見出せる人が多いからかもしれない。
そのかわり、浅煎りの心地よい香りの後にくる強い酸味に衝撃を覚えるのかも。


長々と書きました。
読んでいただきありがとうございます。

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