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「偽善者」と言われて気づく、本当の優しさ


「〇〇は偽善者やもんな(笑)」

中学3年生の夏、この言葉をクラスメイト2人に別々のタイミングで言われた。

当時の私は急に言われたその言葉に驚いて、なかなか飲み込めずにいた。
ただ良くないニュアンスの言葉であることは察していて、なぜ善ではなく"偽"善であったのか、なぜ私はそれを言われるに至ったのか、どうにかその意味を理解したくて、その後も長らく悩み続けていた。

今考えても、14歳にして相当なパンチラインを喰らっている。

そして私はこの言葉を、大学1年生の夏まで引きずっていた。


気づきを得たのは大学での講義だった。
私の出身校ではキリスト教主義教育を採用していて、必修科目にキリスト教科目が設置されていた。そしてそこで私は、聖書の一節にある「隣人愛」についての講義を受けた。

イエスは「隣人を自分のように愛しなさい」と述べ、神を愛することと同じくして隣人をも愛した。それは、律法から外れた罪人に対しても同じ視座に立ち、同じ立場に身を置いて手を差し伸べ、愛するということ。

宗教に関することなのでここでの明言は避けたいが、講義や私の解釈としてはざっくりこのような話だったと思う。

この講義を通して私は初めて気づいた。
イエスが行ったのは「無償の愛」であり、私が行っていたのは「見返りを求めた愛」であった。だからこそ、善ではなく"偽"善 であったのだ。

情けなさ愚かさに、自分を恥じた。



「偽善者」と言われた中学生時の私は、家に居場所が全くなかった。家に居場所がないから、せめても家の外である学校で、どうにか誰かに必要とされたかった。小学校でも人間関係の構築に失敗していた私は、今回ばかりは失敗できないと、本当に必死だった。

誰1人として嫌われたくなかった。嫌われない所か、クラスや学校で関わる全員に好かれたかった。女の子の友達から「〇〇は1番の友達!親友!」と言われる度に、「誰かの1番好きな人」というステータスを得た気になり得意げになっていた。

何か狙って行動をしていた訳ではない。自分と関わる人には平等に優しくいたいし、自分の言動で誰かが傷つくことは嫌だった。それに「優しいことは良いこと、優しいことはみんな嬉しい」そう思っていたから、できる限り優しく、気を遣うことでみんなに喜んで欲しかった。

でも今振り返ると、全ての行動に「好かれたい」が深層心理としてあったと思う。
通路を挟んで隣の人が落とした消しゴムを、私はすごい勢いで拾っていたし、授業が始まっても机の中でガサゴソ何かを探している人にはルーズリーフを渡していた。目線や仕草、声のトーンや普段の様子でその人が何を考え何を求めているのか、察知をしては適当な対応を心がけていた。

そんな私の無意識の汚い心、 純粋な気配りや優しさではなく、「好かれたい」という最大の見返りを見抜いた彼らの「偽善者」という言葉は、かなり言い得て妙である。

これを投げかけ、気づきの機会を与えてくれた彼らには本当に感謝している。皮肉ではない。
自分ではきっと、一生気づけなかった。

それでも「優しさ」って、難しいと思う。

「いい人」は「都合のいい人」だ。
最初は優しい印象でしかなかったものが、だんだんと嘘っぽくうざったく、面倒になる。過剰な気遣いで謙遜しすぎると、対等な関係でもポジショニングが維持できなくなる。

私は正直、今でもこのさじ加減が全く分かっていない。
舐められたり邪険に扱われる事も、「いい人ぶってる」「可愛こぶってる」と言われる事も、本当によくある。

優しくして嫌われることって、ある。

それでも気づきを得てからの私は、できる限り他人軸ではなく自分軸で生きるようにしている。
全員に好かれる必要はないし、嫌われても何も思わない。
誰かの価値基準に照準を合わせて自分を測ったりしない。
誰にどう思われるかではなく自分がどうありたいかで生きる。

でもそうなれたのは、そこまでして外の世界に必要とされたかった私に、ただ「そのままでいい」と温かい愛情をくれた友達たちと出会えたからだ。だから私もそんなみんなに応えるように、ただ「無償の愛」を与えられる人でありたいと思う。


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