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randomly arekore... (なつやすみ)

今年の頭ぐらいから、しずかなインターネット(https://sizu.me/home)でゆるゆると、誰に見せるわけでもなく不定期に文章を書いている。

とびきり嬉しいことがあった日のlivelyな熱量をそのまま塗りたくるためのキャンバスでもあり、何に思い悩んでいるのかよく分からないまま憤慨した気持ちをぶちまけるための器であったりもする。

この頃は夏休みに入り、休学生活が始まった。
次の1年をどう過ごそうか、あんまり目処が立っておらず、ふわふわとした理想論だけが先行きして、現実で手足はあんまり動いていない。結構ダサい状態で、とりあえず目の前のやるべきことを捌くことだけに疲弊して生きてしまっている気がする。格好がつかない。真摯に生きるためのアンカーとして、一旦自分のために文章を書こう、そこから先を拓いていこうと、久しぶりに自分だけの空間の「しずかなインターネット」を開く。

世界をとびきりに楽しんだ留学生活の毎日が、あの時の温度感のまま、自分の言葉に保存されている。書くことっていいね。無作為にスクロールして目に留まった日の文章を開いてみると、きっと友人らが酔って寝静まった明け方に、ほとんど働いていないであろう脳みそで書き殴ったと記憶している旅先での文章が出てきた。旅のことは書いておらず、制作のことだった。皆が寝ている間に必死こいてスタジオ課題をやっていたことを思い出す。半目での走り書きだったはずなのに、悔しいくらい、いい文章だと読み返して思った。繰り返されることのない、一点ものの瞬間が色濃く描かれていた。

2024/3/3
「バリ」

こんばんは、バリにいます。

一人旅をしてバリの風景に出会い人と会い、そして帰国後すぐに待ち受ける家具デザインのスタジオに取り組んでいます。

良き旅であったこと、今はインドネシア登山旅組と合流して豪邸でチルしているということを一旦横に置いておき、ちょっと真面目なお話を脳みそから出力したいと思います。

新しい環境に魅了される日々は、新しい自分へと変幻自在に姿形を変える日々でもあります。自分の哲学とか、生き方、いまチカラをかけたい物事なども日々更新されます。だから書かなければなりません。私は私であり続けるので、他人を見てもどうしようもない。自分を形づくる言葉のアンカーというものは必須です、

制作に対するマインドセットが迷子です。白紙のキャンパスから自分の思考を明確に組み立てていって大きな構築物を目の前に出力する、というのがデザインのプロセスだと思います。デザインは知識量でもある。そして、デザインはすぐに育つような魔法でもなく、長い時間をかけて自分の中で積み上げていくもの。焦りは禁物。私はいろんな景色を見てきたし、いろんな自分を持っている。だからそれを出力して結晶にする、愛を持って構築していく、表現していく方法を今は耕さなきゃあ行けない。アウトプットの筋力が弱いのだ。

デザイン学科の授業なんかに従って、外部要因に頼りきってもけもけしているだけじゃ、自分の表現の種なんて育たない。明確にそこに意志が宿っているから苦しむし、わからない!苦しい!という状態を「楽しめていないからダメだね」と否定しすぎるのも違うと思う。だから、自分の持てる限りの頭と知恵をぶん回して、どうやって己のデザイン手法を開拓するか、真剣に探しにゆくことは尊い。えらい。やったほうがいい。

私が課題に向き合うときに苦しい理由なんて、思い描いた期待値を自分が出力できるかわからない。本当にクリエイティブに頭を働かせてアイデアを産んでゆくことに緊張して肩に力が入りすぎている。とかだ。最初から正解を狙いにいくことなんて滅法難しいんだからさ。自分の心踊る試みを重ねて、その結果でどこかに行きたいよね。ただいまは、スケッチとかモックアップとか、諸々のデザインの痕跡・過程をどう紡いでいいかわからないんだよね。それはデザイナーを真横で見ていないからだと思う。師匠を見つけよう。いい師匠に出会う、いい環境を切り拓くのも自分の力量次第だよ

because you care というBruceの言葉が頭に響く。careしているからこだわりたくなるし苦しみもする。でも手放そうとしないということは、そこに愛があるということでもある。

きっと大丈夫。

しずかなインターネット -hinam


制作に対するわからなさも、どれだけ動いても感じる物足りなさも、地団駄踏みながらも前のめりに生きようとした痕跡を残していたことも、全部シンプルにスタジオ課題というものに打ち込んでいたからだったと思う。自分が一番できない(少なくとも言語的に)環境で、授業だけに打ち込むという整った生活は、自分に向いていたと思う。

初めての環境で、初めて真っ当にやるプロダクト/インダストリアルデザインの留学先の授業は、自分の理想的な学びの毎日を、極めてシンプルで容易に構築できる時間であった。帰国して、元いた環境に戻った今、休学野良学生として、自分の生きたい毎日を構築する難しさに直面している。たぶん、スパルタ具合が足りてない笑 己を律して、自分で自分のけつ叩いて制作とかあんまり上手くいった試しがなく、自分で自分を学ばせること、惰性を出さずにそれを保つことって難しい。表層の上澄みの方で生きてるとすぐそうなっちゃうものだなあ。いや、足りないのは厳しさではないのかもしれない。もっとへその奥深いところにある、重心をどっしり構えて温めるような、生きること、つくること、表現することへの純粋な喜びを抱きしめることな気もする。


2024/08/09

まっすぐと目に温かさと生を宿す友人の言葉を、彼女が描く油絵に囲まれながら聞き入る、という豊かな晩を過ごした。とても大切に、そして真摯に生きる彼女は、美しかった。すてきだった。小手先で描くことを避けて、生命と生命が対峙したときに生まれる空気感の中で、見つめた先の生きたホンモノを詰め込んだ絵だった。獰猛さは不思議となく、溶けるようにまろやかで温かい優しさに包まれて、立ち現れてきたもののように感じだ。何を感じcaptureしするかという感性のセンサが、研ぎ澄まされて嘘偽りなさを持つ彼女の美しさに、なんだか嬉しくなった。生きるっていいな、と忘れていた大事なことを思い出させてくれる、優しいそよ風が頬を撫でた夜だった。


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