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クラスメイトの授業を受けていた話

小学6年生のとき担任だった先生は、とにかく変わっていた。

20代後半〜30代前半くらいだったと思う。他のクラスの先生と比べて年齢も若く、児童との距離も近く、何より明るく元気でよく私たちのことを笑わせてくれた。怒ると学校一怖かったが、クラスの皆その先生のことが好きだった。

夏になるとプールの授業が始まるが、ライフセーバーの資格を持っていた先生の授業は一風変わっていた。
出席番号順に2人ずつ前後に並ばせて、前後の2人が1ペア(バディ)になる。

図にするとこう
後列→ ●●●●●●●●
前列→ ○○○○○○○○

授業が始まると、まずプールサイドでこの隊列を組む。そして先生が「バディ!Go!」と声をあげると、端から順に前列の児童が「1!」「2!」「3!」と言いながら挙手をする。後列の児童は、バディの上がった手首を掴む。これが点呼だった。さながら軍隊である。

授業内容も、クロールや背泳ぎなど泳ぐ練習をした記憶はなく、溺れたときに人はどうなってしまうのか、溺れている人を見つけたらどうすればいいか、足がつかないところで体力がなくなってしまったらどうするか、といった授業がほとんどだった。
水着の上から体操服を着てプールに入ったこともある。川や池で溺れるときは水着を着ているとは限らないので、着衣の状態で水に入った時の感覚を知っておくための授業だった。救助を待つ間、体力を消耗せずに長時間浮いているにはどうすれば良いかを班で話し合って発表したり、人を引き寄せたり引き上げるときには手を繋ぐのではなく、互いに手首を掴めば力が入りやすいことなどを学んだ。

6年生は、プールの授業の最後に全クラス合同で行う水泳記録会というイベントがあり、他のクラスの授業は記録会で50m泳ぎきる為の練習をしていたようだった。でも先生は、50m泳ぐことよりも命を守る方法を私たちに教えてくれていた。
授業の後半は毎回自由時間で、先生はカラフルなサングラスをかけて監視台に座り、好き放題遊んでいる私たちのことをいつも真剣な眼差しで見ていた。その姿はライフセーバーそのもので、とても頼もしく格好良かった。

変わっていたのはプールの授業だけではない。

クラスの約40人を4人ずつの班に分け、それぞれの班に担当教科を割り振り、1ヶ月ごとにローテーションする。

小学生の班活動といえば、掃除当番とか給食当番とか、飼育小屋の動物への餌やりがほとんどだ、私たちも5年生まではそうだった。
ただ、この先生は違った。科目担当制にして、その班のメンバー4人に授業をさせた。

自分の担当科目は、前日までに授業の内容を考えなければならない。休憩時間や放課後などに班で集まって授業の進め方を話し合い、先生のところへ行って授業内容を事前に教わる。黒板に書く内容や話す内容をまとめて、チャイムが鳴ったら4人で前に立って授業を始める。最後の5分間は先生が補足やまとめを話す為、40分で終わらなければならない。
間違ったことを話していたり、進行が詰まったりするともちろん先生は助けてくれるが、基本的には黙って授業を見ている。担任の先生の机は教室の前方端にあるのが普通だが、この先生の机は教室の一番後ろの端にあり、いつも後ろから私たちを見ていた。

国語や算数は授業数が多いので、担当になった班は大変だった。でも事前に先生から教わったことを話せばいいので、慣れてくるとそうでもない。自分が苦手な分野でも、班に1人ぐらいは得意な人がいたりする。そのうち人前で話すことに抵抗がなくなっていき、大きな声も出せるようになる。
全員が授業をする立場であり受ける立場でもあるので、積極的に挙手をしたり意見を言うことが増えた。質問を受けて進行側が黙ってしまうと、先生が口を挟む前に誰かが手を挙げて助ける場面も多かった。

初めて道徳の担当になったときのことは今でも覚えている。道徳は週に1、2時間しかないので給食当番などと兼任になることが多く、回数だけで言うと楽ではあったが、授業内容が本当に難しかった。
事前に先生から授業内容は教わるが、国語や算数と違って道徳の授業には正解が無く、そもそも何を話せば良いのかがわからない。

広島県という土地柄、平和学習と称して戦争を取り扱う題材も多かったが、そういったあからさまに「これは正しいことではない、間違っている」と認識しやすいものがテーマになっているときの授業は容易い。なぜ間違っていると言えるのか→罪のない多くの人の命を奪ってしまうから、など多くの意見が挙がるし、結論を出しやすいからだ。

ある日、先生から「賛成意見と反対意見が両方出るようなテーマを考えて、話し合いをする」という題材を出されたことがある。次の道徳の授業まで数日しかなく、班のメンバーで放課後教室に残って考えた。戦争やいじめをテーマにしてしまうと賛成意見が出てこない。
しばらく悩んだ末、ひとりが苦し紛れに言った「嘘をつくことは良いことなのか、悪いことなのか」というテーマが採用された。

嘘をつくことは、一般的には悪いことである。実際、「悪いことだと思う人」という問いかけには大多数の人が手を挙げ、「良いことだと思う人」という問いかけには数人の手しか挙がらなかった。「嘘をついたことがある人」という問いかけには、クラス全員が手を挙げた。

そこから、どういうときに嘘をつくのか、嘘をつくことでどういう気持ちになるのか、相手の為を思う優しい嘘ならついてもいいのか、それは本当に優しさなのか、良い嘘と悪い嘘の違いは何なのか、いろんな意見が飛び交い、白熱した議論は止まらなかった。その間先生は一言も発さず、手元のノートに何かを書きながら黙って聞いていた。
進行していた私たちが45分ではおさめることができず、休憩時間も次の授業も潰して続けることになった。話し合いが終わる頃には、「嘘をつくことは悪いことだと思う人」という再度の問いかけに手を挙げる人は数人にまで減った。
結論としては、自分の為の嘘は時として相手を傷つける、嘘をついたときの相手の気持ちを考えることが大切、というような内容でまとめて各々感想文を提出して授業は終わった。

この日の放課後、私たち4人は先生に残るよう言われ、今日私たちがした授業のことを中学生になっても高校生になっても、大人になっても忘れてはいけないと言われた。答えがないことについてみんなで意見を出し合って真剣に話し合った、今日の2時間のことを。これから先、自分とは違う意見の人にもたくさん出会うし、価値観の違う人にもたくさん出会うけど、他者を受け入れられる大人になりなさい、と。

私はこの授業のことを、このときの先生の言葉をずっと忘れないまま大人になった。他者を受け入れられるほど器は大きくないが、価値観の違う人を「合わない」と切り捨てる人にだけはなりたくない。

児童による授業は2学期いっぱいまで続いた。
だが3学期が始まると先生の授業に戻ってしまった。誰も何も言わなかったが、保護者からの反対意見やクレームが多かったと後で知った。

大人になって思い返してみると、長い学生生活の中でもこの小学6年生という1年間は本当に多くのことを学び得た。
1年生から5年生までの5年間とは比にならないほど、なんでもない日常をクラスメイトと一緒に過ごしたことや話した内容、先生の言葉が、20年経った今でも褪せることなく残っている。

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