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脳みそをなでる音

 1枚のジャズアルバムから、参加しているメンバーをたどって他のアルバムをはしごして聴く、とかいうことをやっていると、ときたまとても気に入る曲なり、演奏なりに出合うことがある。そしてどういうわけだか、その音なのか、メロディなのか、リズムなのか、とにかくそれのどこだかにグッとやられてしまって、何度も何度も聴きたくなってしまう。そういうふうになることがある。
 最近はあまり聴かなくなった、ロックバンドみたいなのでだって同じようなことがあったし、クラシック音楽でも、まあそれがどんなジャンルのものであれ、とにかく。
 それはどこか虜になってしまうような、抗しがたいとでもいいたい感覚なんだけれど、それがずっと続くというのでもなく、いつしかそれは別の曲なり音なりに移っていく。

 例えば最近でいうと・・・と、そういうことを書いてもそれはいまこの時点の私のことなので、書き出す必要もないとおもってしないでおく。

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 そんな日々のなか、最近とくに読む本がないときの埋め合わせみたいにしてちょこちょこと読み進めていた本の終りの章に、戦慄をおぼえた。ちょっとだけ引用する。

フルートはピアノと違って、一度に一つの音しか出せない。従ってメロディーを吹くだけである。よい気になって吹いていると、先生にここの和音はどうなっていますか、と聞かれることがある。つまり、メロディーを吹いていても、その下についている和音がどうなって、どう変化していくかが分かっていないと駄目だというのである。和音のことを知ろうと知るまいとメロディーそのものは変わらないと思うのだが、そうではない。和音と関係なく吹いているときと、そちらに気を配って吹いているときは明らかに異なり、先生にはちゃんと分かるから怖いのである。

河合隼雄『河合隼雄の幸福論』より<音のない音>

 私が気を失いそうになったのは、このあとに続く文章にであった。著者は分析心理学者であり、そのような視点からこの引用部分から得た自身の、人間に対する実践への考察とでもいうような記述が続く。
 その部分をどうして引用しないかというのは、これを読んで自分が感じとったものや、私の、ある部分の核にふれたような要素というかそんなようなものを、秘密にしておきたいような気もちからである。いまこれを読んでくれているあなた方が、もしもこの続きに興味を持たれたなら、ぜひ自分でこの本を手にとって読んでみてほしい。そういう理由から引用をしなかった。

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 このnoteには毎度あれこれと、個人的でどうでもよくて、思考のまま手の動くまま書き散らしていて、その中にはふだん周りの人に向けて話したり、明かしたりしないようなことだっていくつかある(記憶があいまいだけれど、たぶん)。
 そうはいっても、さらに誰にも話さず、どこにも書かず、心の中にだけしまっていることもいくつかある。たくさんはないけれど、いくつかある。口に出したり、外に向けても自分のためだけにも書き出してみたりしないことから、もしかしたら私自身さえそれらをきちんと認識できていないのかもしれない。
 そういうことは、口に出してしまったら何かが損なわれるような、とても大切な要素が薄れてしまうような、そんな気がしなくもない。
 誰かに話すことでラクになる、そういう類のものは、誰しも抱えているだろうとおもう。私にも、できれば話してしまいたいと感じることもあるけれど、きっとそれは、やっぱりどれだけ苦しくっても自分ひとりの心にしまっておいたほうがいい物事もあるんだとおもう。

 そんなことをおもいながら、この、引用した部分からひとつおもうのは、そうした心にしまっているあれやこれは、口をつぐんでいたとしても別のものとして表現可能であることだった。それは冒頭の、どうしてだかとりつかれてしまう音たちにもつながった。
 河合隼雄さんの文章からいくと、和音の下についている、鳴っていない音をキャッチした人だけが奏でられる音やメロディ、あるいはリズムが、ある時点の私の(他の誰かの)心のどこかをそっとなでているのかもしれない。そんなイメージがわいた。

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 写真を撮ってRAW画像データを現像する工程で、撮影時にはみえていなかった色や光をさまざまに可視化することができるのに、すごく驚くことがある。こういうのも、メロディを奏でるときの和音に気をはらうのと同じく、目の前の風景に含まれている(はずの)色や影などにまで配慮ができるのが一級なんだろうな。

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今日の「ものたりない」:今日はネギがなくてさみしいもりそばでした。面倒だとついそばを茹でてしまいがちです。

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