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実直で堅牢なカーブ

 大浦天主堂の境内には、天主堂の他に旧羅典神学校と旧長崎大司教館という建物がある。そこらへんの資料を読んでいると、いろんな文献に実にいろんなことが書いてあって退屈しない。と言ってもそれらが全部信頼できるソースからのものとは限らないが。
 このふたつの建物の設計者はド・ロ神父で(旧大司教館の方は鉄川與助との共同設計)、ド・ロ神父といえば外海そとめ地区にも教会堂などを建てたことで知られている。

 ド・ロ神父の設計物とおもってあらためて眺めてみると、どれも実にしっかりと、実直につくられているのが感じられる。
 たとえば出津教会は海から近く風雨を受けやすい場所に建てるというので、台風などの被害が小さくあるように高さを抑えたつくりになっている。一見するとそうとはおもわれないけれど、煉瓦造りの建物で、外も内も漆喰で塗りかためてあるから白壁だ。
 1882年のものだから(途中増改築はしてあるけれど)140年余り経っていることになる。旧羅典神学校はもう少し古く1875年の建設、旧大司教館が1915年だから100年ちょっと、いずれにせよどれも100年を超えた建物である。

 ド・ロ神父は建設のとき、100年先にもこれらが建っていることを少しでも想像しただろうか。

 堅牢な建物をつくろうと、ド・ロ神父の持てる知識と技術とでつくっただけあって、ちょこちょこした修復などはあったにせよ、出津教会は現役だし、旧羅典神学校も旧大司教館も、その建物に足を踏み入れ見て回れることのできる状態を保っている。

 しかしそれが丸ごとイイことである、というわけではないのかもしれない。
 歴史的建造物というので、今ではどれも文化財として登録、保護されているわけだけれども、それにかかる費用というのは相当なものだ。貴重であり、歴史を伝え感じられるものでもあり、我々が目にすることができるというのはひとつの幸運と言って差し支えはない。でも言い方を変えてみれば、残ってしまったばっかりに保存する必要に迫られている状況でもあるわけだ。

 大浦天主堂より前に建てられた横浜の天主堂なんかは、火災で焼失してしまったから、歴史の中で記録として残っているのみである。なくなっちゃって、記録されたわずかな資料でしか知ることは叶わないけれど、保存の義務からは解放されている。それがなんの価値もないかというと、必ずしもそうではないのかもしれないし。
 どっちがいいんだろう、とつい考えちゃうんだけれど、結局どちらがいいのなんのという話でもない。それぞれの歴史を辿って、あるべき姿が今に残っている、それだけの話。

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 昨日は出津教会に用事があって、行って数枚写真を撮ってきた。ここにはステンドグラスは入っていないし、前述のように高さもない。装飾もほとんどない。
 でもよく見てみると、ド・ロ神父は少しだけ装飾をしてあって、これがとても好ましいとおもった。これまであまり意識はしなかったけれど、大浦天主堂まわりの資料を読んでいて、ド・ロ神父が設計した建物に共通するいくつかの特徴のなかで装飾のことに触れられた項があったのだ。

 太めの躯体のちょっとしたところに、くりぬきのカーブがあるのがいくつも見つけられる。建具類などには半円のアーチを持つ窓や開口部が多くて心が和む。主祭壇、脇祭壇ともに後壁がカーブしているんだけれど、そういうのはたいへん珍しいのらしいというのもつい最近知った。
 出津教会が建てられた当時のこのあたりの生活は質素なもので、そのような住民、信徒をおもって工夫してできた教会堂、そういうことを考えてみたとき、文化財だ世界遺産だと言ってたくさんの人間や、大きなお金が動いている現状というのは、ある意味では滑稽であるかもしれない。

 大事なのは建物(モノ)なのか、ずっと続いてきた信仰(こころ)なのか、その両方なのか。そういうのの他にも、観光誘致や商売などといったあらゆる種類の腹づもりとか、家系や縄張り意識のような、どうかすると個人的感情が絡んでいる気がすることもあって、ときどき一体いま自分が何を相手にしているのかわからなくなる瞬間がある。

 そういうときには昨日のように、そういうものぜんぶから遠ざかってただカメラを持ってシャッターを切ると少しすかっとする。

 結局のところ、何が大事かなんてわからないけれど、だからなんだって言うんだ、そんなふうにおもったりもした。

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今日の「肩車」:おじさんが肩にダックスフントを乗せて歩いていました。自慢してるつもりだったのかな?

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