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「変な人」に対する快感と息苦しさ

「何か面白くて変なことを表現しようとすると日本にぶち当たる、ずるい」
デンマークのフィールドワーク先で会ったインダストリアルデザイナーをしている知り合いにそう言われた。

変なもの…変なもの…あぁ、なんとなくわかるかも。
そんな浅い感想と共に家に帰った。

同じ週、別の人が「なんで日本を離れるの?単純に学問上の理由?それとも居ずらかった?」と聞いてきた。
普段はどうしてデンマークを選んだのか、という質問なのでちょっと面食らいつつなんとか答えようとしてみたけれど、うまく言葉に落とせない。
じっくり考えて決断したようで、実は自分でも良くわかっていない。

海外に住んで7年目、ずっと頭のどこかにこの質問が鎮座していた。
いつか天からビビッとくる答えが降ってくるのを酒を飲みながら待っていたが、結局来なかった。
でもなんとなく知り合いに言われた「変なものを生み出し続ける日本」と関係がある気がしたので、重すぎる腰と尻をあげて考えることにした。

経済面...なのか…?
最近、円安で日本経済の絶望がより増したので稼ぎたいなら海外移住、という論調をよく見る。でも稼げない学問ランキングトップクラスの人類学を5年以上やっている身なので、どうやらそこがメインでは無さそう。
まぁ恐らく興味が湧くことだけをやっていても、自分の興味範囲を拡大解釈して無理やり稼げる職種に変換しなくても、死ななさそうな場所を無意識に生存戦略として選んでいるとは思う。そしてその場所は多分日本じゃない。
でもそれも結構後付なもんで、実際はノーロジックの感情の部分が大きかった。

じゃあ何だったのか、自分は日本で息苦しかったのか?
少なくとも、しきりに海外移住者が言う「日本は個を認めない、同調圧力が強い」という表現は自分にはピンと来なかった。
普通に認めてもらっていたし、変な人だねとよく言われた。
小学校の頃に最初に友達に「悪い意味じゃなく、変だよね」と言われてショックを受けてから、いつの間にか言われる事に慣れ、
なんならいつからか快感すら良さを覚えるようになった。

でも恐らくこの気持ちよさが同時に息苦しかったっぽいのだ。

変な人でいることは、統計上外れ値でいられて意味も責任も無かったはず。変な期待をかけられずに生きやすかったはず。
なのに日本、とりわけ大都市東京で暮らしていると、変な人選手権が至るところで開催されていて、自分の変な部分を背伸びさせてある種自分からプレゼンし他の人に見てもらうことでやっと変な人認定され、コミュニティに入れ、仕事を紹介され、色んな人に出会え、嗜好の近い人と出会える場所を紹介してもらえた。それぞれの変な部分の話を面白おかしく話しているはずが、いつの間にか「どのくらい」変な人か、という話にすり替わっていた。

変な人は期待されずに世間の外側にいても許されるはずが、実際は「社会で役立ちそうな変な人」と「社会的にアウト寄りの変な人」には大きな川が流れていて、無意識に「社会的に役立ちそうな変な人」側に身を寄せていた。そうして気付いたら資本主義的アジェンダのど真ん中にいた。
私以外にもそうした人は沢山いて、私が見た日本では人々の変なことをすることへの気合いの入り方、あるいは気負い方がそんじゃそこらのヨーロッパの国と違った。

だからこそ面白い人が沢山いたし、その圧に乗せられて自分ももっと変わったことをしたくなった。そしてその無限ループは脳汁が出て気持ちよかった一方で、どこか息苦しくもあった。

今はというと、デンマークに住んでいて、外国人扱いされている。外国人とデンマーク人の扱いが同じ白人でも違うと怒る人も多いけど、
個人的にはこの期待されなさが謎に気に入っている。歪んだ感情かもしれないけど、今一番自由を感じている。

今この瞬間も変なものと人を生み出し続ける日本のエネルギーのうねりと、それを周囲が喜ぶフォーマットで体現することに息苦しさを感じてしまった自分を結ぶ、「変なもの」。多分これが今自分に書ける中で一番違和感が少ない表現なんです。

もし気が変わっていつか私が日本にまた住むと完全帰国してきたら、ちげえじゃねえか、長文読んだ時間返せ、と酒瓶あるいは水タバコのパイプで殴ってください。その時は全力のジャパニーズスタイルで土下座をしようと思います。

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